◆日本カトリック教会の歴史◆

                       溝 部  脩

                               

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   ≪近代日本とキリスト教 T≫

T ザビエル到来より秀吉禁教令まで(1549〜1587年)                   

U 秀吉の追放令より、日本26聖人殉教まで(1587〜97年)      

V 徳川家康とキリスト教会(1599〜1616年)      

W 迫害と殉教の時代(1616〜1632年)    

X 鎖 国(1633〜1687年)         

Y 日本26聖人殉教者            

≪近代日本とキリスト教 U≫  8/2更新

 

≪近代日本とキリスト教 T≫

T ザビエル到来より秀吉禁教令まで(1549〜 1587年)

フランシスコ・ザビエルと日本   1549年8月、フランシスコ・ザビエルと2人のイエズス会員は、日本の南端、鹿児島に上陸した。ザビエルは、日本人の勤勉さと向学心を看破し、日本の宣教に大きな希望を抱いた。ザビエルは日本の政治、学問の中心である京都において宣教をする必要があると考え、京都に赴いたが当時日本は戦国時代であり、京都を諦め、山口を宣教の拠点にした。しかし、1551年、大分の領主大友宗麟の招待があり、大分に赴き2ヶ月滞在して中国宣教を考え、日本を去った。大分はサレジオ会に任された地区であり、日本教会の最初の司教区があった所である。ザビエルは宣教に関して、2つの指針を残した。日本人を育てること、日本の風習、文化に適応することであった。

トルレス時代  ザビエルの後を継いで日本教会の長となったのはコスメ・デ・トルレス神父であった。1550年代当時、大分は日本教会の中心地であり、そこには教会、病院、乳児院が建てられ大友宗麟の庇護もあり、教会は順調に発展した。トルレスはザビエルの残した指針を忠実に守った。  16世紀の宣教を考えるとき、貿易と政治を抜きにしては考えられない。大分は外国の船が出入りするのには不便な所で、徐々に九州の北部、今の長崎地方に外国船は寄港するようになった。1662年肥前(長崎地方)大村の領主、大村純忠は1つの港を提供し、更に洗礼をも希望したこともあり、トルレスは大分より大村へと移った。1563年6月、トルレスは大村純忠とその外の重臣たちに洗礼を授けた。この間に島原半島や天草地方にキリスト教は広まった。1570年、長崎が開港されるや、教会の拠点も長崎に移り、日本教会の中心地となった。 トルレスは、ザビエルの意志を継いで、京都地区の宣教を実行に移した。1559年、ガスパル・ビレラが京都に送られ、孤軍奮闘の中に宣教を始め、1563年からインテリ階級が教会の門を潜り、輝かしい発展を見るに至った。1565年、ルイス・フロイスが上京するに及んで、宣教は本格化した。1570年に入ると織田信長の保護もあり、非常な勢いで教会は発展した。

 フランシスコ・カブラルとキリスト教会   トレルスの死の後を継いで、日本の長上となったのはフランシスコ・カブラルであった。カブラルは1570年来日、すぐに宣教師協議会を開催し、清貧を強調し、イエズス会の精神遵守を強調した。長上として日本全国を巡視し、1つの方針のもとに日本教会を発展させた。70年代から80年代にかけて日本の諸々の地方で集団的回宗が行われた。大村に始まり、1576年より島原半島に、78年には大分の領主大友宗麟が受洗して、大分地方はキリスト教化された。京都地方にも回宗の波が押し寄せ、1579年には信者数は10万に達した。

 アレッサンドロ・バリニャーノと教会改革  1579年7月バリニャーノは巡察師として来日、日本教会の改革を実施した。外国人宣教師は日本語を徹底して学ぶこと、日本の文化に適応することの線を打ち出し、とくに日本人の養成に力を注いだ。セミナリオ、コレジオ、修練院を設立した。バリニャーノは日本全国を巡り、当時の著名な大名や、知識人に会い、カトリック教会の地位を高めるのに成功した。1582年2月、離日した折に4人の少年使節を伴い、彼らをヨーロッパに送った。彼らはスペイン、ポルトガルを巡り、ローマ教皇に謁見し、8年の歳月を経て日本に帰国した。                                                このページのトップに戻る

 

U 秀吉の追放令より、日本26聖人殉教まで(1587〜97年)

秀吉追放令  1587年まで順調に伸びた教勢は豊臣秀吉の宣教師追放令で中断された。イエズス会は活動を制限して為政者を刺激しない方針をとった。秀吉はフィリピンとの通商を考えていて、この度は追放令を徹底させることはしなかった。しかし法的にはキリスト教は禁教であった。秀吉は日本の西国、九州を平定して、その勢いで朝鮮半島の 攻略を行った。この間宣教師たちの多くは肥前地方に隠れ、むしろ信者の教育を徹底する方法を選んだ。1590年、バリニャーノは再来日し、秀吉に対しての対策を練った。1591年、秀吉と京都で会い、日本に規定の数の宣教師が合法的に滞在する許可を得た。しかし、秀吉はキリスト教は日本において不法であるとの線はくずさなかった。バリニャーノは為政者を刺激しないで宣教する線を指針として残し、離日した。二度目の来日で印刷機を持ちかえったことで出版による宣教が花開いた。

フランシスコ会来日  イエズス会が自重策をとっている間に、1592年6月、フィリピン総督の使節としてマニラより最初のフランシスコ会員が来日した。翌年、93年にはペトロ・バプチスタが使節として来日。秀吉と面会の後、彼は日本に留まった。京都と長崎に修道院を建て、イエズス会の方針に反対して公然と宣教した。この時からフランシスコ会は、後に来日する他の修道会とも合せて、イエズス会との間に深い溝をつくった。

26聖人殉教  1596年にはフランシスコ会員の補強があり、彼らは京都、大阪、長崎の3箇所で働いた。1596年8月上陸した日本の司教ペトロ・マルチンスはフランシスコ会に退去を命じた。又インド総督の代理として秀吉に面会した。この年の10月17日、スペイン船サンフェリペ号が土佐浦戸港に漂着、積荷を秀吉が没収したことで紛糾し、秀吉はフランシスコ会が公然と宣教しているのは違反であるとして逮捕させた。6名のフランシスコ会員と日本人同宿、3名の日本人イエズス会員と計26名が捕らえられ、京都より長崎まで護送され、1597年2月5日、長崎西坂の丘で磔にされて殉教した。彼らは1861年12月23日と1862年3月25日にピオ9世よりローマで列聖された。

秀吉の死と、バリニャーノの来日  バリニャーノは事態の改善を図るために三度目の来日を試み、ルイス・セルケイラ司教と共に1598年8月、日本に上陸した。秀吉に面会は出来たが、彼は間もなく死亡した。バリニャーノは日本の教会の問題を再度調整し、新しい準管区長にイタリア人のフランシスコ・パシオを任命した。更にヒル・デ・ラ・マタをローマに派遣し日本教会の現状を報告させようとしたが、途中で難破し、この計画は実現しなかった。          このページのトップに戻る

 

V 徳川家康とキリスト教会(1599〜1616)

 秀吉の死後、政治の主導権を握ったのは徳川家康であった。関ケ原の戦い(1600年)で勝利し、全国統一を実現した。家康は徳川幕府の基礎固めを行った。即ち、日本全国を領土とし、人事権を握ることに成功した。諸侯は徳川の命令のもとに、日本全国どこにでも国替えをすることが強いられた。同時に宗教、言語、貿易も徳川の下におかれ、統制された。この中で教会が自分の信仰の自由を保つのは不可能に近いことであった。

家康の初期の政策 家康は政権をとってからの10年間は穏やかな政策をとり、宗教に関しても寛容な態度を示した。この10年間はキリスト教がいちばん充実し、発展した時代であった。家康はマニラ、マカオと外交、通商の充実を求めていた。マニラとの交渉にフランシスコ会を利用し、マカオの交易にはイエズス会を利用した。1603年前後には信者数は300万人を数えていた。

ドミニコ会とアウグスチノ会 1602年7月、5名のドミニコ会員が来日、鹿児島で宣教を開始した。アウグスチノ会員も同年、大分の臼杵に拠点をおき、仕事を開始した。フランシスコ会は江戸にあって施療院を開設、癩病人や下層民を対象にして活動を行った。家康は、外交の必要からこれらの宣教師の活動には目をつぶっていたが、キリスト教を受け入れる意向は全くもっていなかった。1600年、オランダ船が日本に漂着したことに始まり、オランダ、イギリスとプロテスタントが日本を訪れるようになり、中傷合戦が開始された。オランダは宗教と政治を分離して考えていることもあり、家康は彼らの方を歓迎した。

禁教への道のり 1610年正月、長崎港で日本兵がポルトガル船を攻撃して、沈没させる事件が起きた。マカオとの交易は一時中断した。更にこれに関わって賄賂事件や、妬み、野心が絡み、信者同士の争いが表面化した。家康はこれら全部を計算に入れて禁教に踏み切った。1612年、4月徳川の直臣である信者を改易、大奥の女中を流罪にした。さらに江戸と京都の教会を破却させた。これに呼応していち早く、有馬領(島原)では迫害が始まった。家康の禁教令は日本全国の諸大名に通達され、宣教師の領外追放が実施された。1613年8月、江戸において28名が斬首され、殉教の始まりとなった。

1614年1月28日、公式の禁教令と宣教師追放令が全国に発布された。同勅令では宣教師は外国の手先となって神国日本を侵略し、植民地化する意向であると述べていた。すぐに特使が京都に派遣され、先ず京、大阪より全ての宣教師は追放され、主だった信者もある者は長崎からマニラへと流され、ある者は北国に流罪となった。長崎は教会の中心地であり、全市がキリシタンであった。追放された宣教師や、主だった信徒が長崎に来たこともあり、長崎は興奮の極みであった。幕府はそれでも方針を変更することなく、11月中に全ての宣教師を国外に追放した。数人の司祭たちはひそかに隠れて潜入した。この年、長崎の全ての教会は破却された。

迫害初期の信徒たち 司祭たちは日本を去る前に信者の組織をつくっていた。司祭なしでも信仰を守ることのできるコンフラリア(組)という組織であった。フランシスコ会は「コルドンの組」、ドミニコ会は「ロザリオの組」、イエズス会は「サンタマリアの組」といった組織を通して、信者は迫害時にも互いに助け合う自衛の手段をもつことを目的としていた。

家康の死 1614年から15年にかけて日本は豊臣家と徳川家の争いがあり、最後の大きな戦争が行われた。徳川は勝利者となり、日本全国を絶対権力で統一する最高の権限を握った。しかし間もなく、1616年6月、家康は死亡した。

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W 迫害と殉教の時代(1616〜1632年)

 2代将軍秀忠は、就任後すぐ禁教令を発布して反キリスト教政策を表明した。外国との貿易を制限し、外国人の渡来を禁じ長崎近辺の警備を強化し、積極的にキリスト教宣教者の検挙に踏み切った。同様に聖職者の宿主も検挙し処刑した。1617年の逮捕に始まり、ぞくぞくと聖職者と宿主が逮捕され、1622年9月、長崎において55名が一気に火刑と斬首刑により処刑された。1619年には京都において52名、1623年には江戸において50数名と三大殉教をもってキリスト教の息の根を止めたという政府の意気込みがあった。また幕府はマニラ、マカオとの通商も断交した。

潜伏司祭 迫害が激化する中で多くの聖職者が生命の危険をかえりみず、日本に潜入した。1615年より44年までに日本に潜入した聖職者は101名であり、内司祭は85名であり、他は修道士であった。この中の七割の70名は1615年より24年までに潜入し、それから後、かなり長く日本に残って働くことができた。そして殆どは殉教した。しかし25年より28年までの5年間は琉球で捉えられた1名を除いて日本に潜入したのは皆無であった。それだけ長崎の警備は厳しく、日本の宗教政策も徹底されてきたことを意味する。

厳しい拷問 1627年までかなりゆるやかに禁教令が実施されていたのは長崎であった。しかし1628年より5年間は長崎とその周辺は、地獄の様相を見せた。単に聖職者と主だった信者のみならず、信者であれば全て拷問にかけられた。拷問のやり方も増え、残忍なものとなった。雲仙の熱湯を浴びせたり、焼きゴテをあてたりする拷問はこの時代に加わった。殉教者の数が一番多いのもこの時代の特徴である。多くの信者は長崎を逃げたこともあり、人口の減少を憂い、幕府は殺すことより転ばせる方式へと変えた。こうして「転び」が続出した。

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X 鎖 国(1633〜1687年)

 鎖国 二代将軍秀忠は、1632年3月死亡。3代将軍家光は、父親にも勝る激しい方法で、教会を迫害し、殆ど、壊滅にまで追い込んだ。彼の政策は鎖国であり、1633年より鎖国令を発布し、諸外国との一切の接触を絶った。キリシタン改めが全国に実施され、徹底した禁教政策が展開された。

 島原の乱 激しい迫害と弾圧は、1628年より長崎地方に実施された。組織的な検挙があり、潜入は厳しく取り締まられた。1632年より35年までの3年間で実に77名の聖職者と同宿(カテキスタ)が逮捕され、殉教した。拷問も殺すより転びに重点がおかれた。拷問の中で一番苦しいと言われる穴吊るしもこの時に始まった。聖職者や看防を失っていく時代にあって、信徒は自衛するより他に方法はなかった。島原(有馬)地方は早くから迫害が始められており、信者の「組」という組織が発達していた。また領主の国替えと共に武士を捨てて農業に従事したキリシタンが多くいた。1630年代に入り、為政者の過酷な税の取り立てが重なり、領民の怒りが一揆という形で表された。苦難の時に奇跡の物語が噂され、更に代官がキリシタンを連行したことで一揆に火がついた。1637年10月に始まり、翌年38年4月まで農民は原城にたてこもって果敢に政府軍に抵抗した。城の中では老若男女全員が殺害される結果となった。その数3万人と言われる。この事件後、幕府はポルトガルとの交易を完全に断ち、それでも来航したポルトガル人全員を1640年には斬首して見せしめにした。その後、数人のオランダ人のみ長崎の小さな島(出島)に閉じ込められたまま日本に留まるのを許された。

必死の日本来航 島原の乱後、聖職者の詮索が特に厳しくなり、日本全国にまだ隠れていた司祭たちは捕らえられて2人を除いていずれも殉教した。しかし、厳しい監視体制の下にも日本渡来を志す宣教師たちがいた。1642年に潜入した9名はすぐに捕らえられ、拷問を受けて後、穴吊るしの刑で殉教した。翌1643年には10名が潜入し、これが最後の潜入となった。彼らは捕らえられて江戸に送られ、拷問と甘い勧誘の後、全員棄教した。そして江戸のキリシタン屋敷に閉じ込められてその生涯を終えた。それから60年後の1708年、ジョンバニ・シドッティ神父はマニラより単独で日本に潜入し、すぐに逮捕されて、キリシタン屋敷でその生命を終えた。

最後の締めくくり 宗門改め 島原の乱後、徹底したキリシタン絶滅の方法がとられた。1640年宗門奉行が開設され、全ての日本人は仏教に帰依し、寺院に属することが義務づけられ、踏み絵も強制された。1657年には二代目宗門奉行就任にあたり、更に弾圧が強化され、大村、豊後(大分)、名古屋の三ケ所で大量の検挙があり、キリシタンは絶滅の状態となった。1687年、幕府は類族帳作成を諸大名に義務づけた。類族とは、キリシタン本人より数えて、5代までの子孫をキリシタン一族とみなして監視することを意味していた。先祖がキリシタンであったという理由だけで絶えず差別されたのであった。

隠れキリシタン この激しい監視の下にあっても、辺鄙な土地に隠れて自分の信仰を守り抜いた人々がいた。表面上は仏教徒を装いながらキリスト教の信仰を保った人々であった。彼らは張方、水方(洗礼を授ける人)、聞役(連絡係)という組織をもち、自分たちの共同体を作成していた。彼らは黒船に乗ってパパさまが送る告白を聴く司祭が、将来訪れるだろうと希望して待っていた。

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Y 日本26聖人殉教者

 

はじめに    聖フランシスコ・ザビエルが日本に到来して以来、種々の困難はあっても、キリスト教は順調に発展していった。順調に伸びた教勢は1587年豊臣秀吉の宣教師追放令で中断された。イエズス会は活動を制限して為政者を刺激しない方針をとった。しかし、秀吉はフィリッピンとの通商も視野にいれていたこともあり、その追放令を徹底させることはしなかった。しかし、法的にはキリスト教は禁教であった。これが26聖人殉教の法的根拠となる。

 イエズス会が自重策をとっている間に、1592年スペインのフランシスコ会がマニラより来日。翌93年にはペトロ・バプチスタ・ブラスケス神父が公式使節として秀吉に面会した。彼はその後日本に留まり、秀吉の好意的とも思われる待遇の中で、フランシスコ会は半ば公然と宣教し、京都、大阪、長崎と3つの修道院を設立するに到った。

 朝鮮の戦争の進展が思わしくないこと、明との交渉も決裂していること、不穏な天候、自然の異変が続き、更に自分の身辺の心配まで重なって、秀吉自身も不安定な心理状態に追い込まれていた。その時一艘のスペイン船が土佐の浦戸港に漂着した。

 

ことの発端     1596年10月18日、

マニラを出航した一艘のスペイン船サンフェリペ号が、メキシコに向かう途中難破して、土佐の浦戸港に漂着した。その積荷を秀吉が没収させたことから問題が起こった。没収した日本は、流れ着く品物は日本の物であるとの日本の法を楯にとり、どこまでも没収を正当化した。没収されたスペイン側はそれに苛立ち、大国意識をむき出しにして挑戦する場面もあり、ことは深刻化した。秀吉の外交が挫折したいたことや、秀吉個人の不安定な状況に加えて、積荷への不当な欲望が絡み、これに禁教という法的な根拠を与えて、迫害が開始された。秀吉の側近の意見に左右されることも多かった。秀吉はフランシスコ会が公然と宣教して、国法に反しているとの理由で、フランシスコ会会員とそれにかかわる人々を逮捕させた。

 12月8日大阪のフランシスコ会、イエズス会修道院に監視が立ち、秀吉は同日石田三成にに命じ、信者名簿を作成させた。キリスト教に好意的だった三成は名簿の中から多くの人々、特にイエズス会関係を外した。12月9日京都のフランシスコ会修道院も包囲され、捕吏が修道院内に侵入した。この時、伝道者や病院の責任者など5名が連行された(レオン烏山、パウロ鈴木、ボナヴェンツーラ、トマス談義、ガブリエル十助)。修道者たちは修道院に軟禁された。

 12月31日逮捕命令が下り、大阪修道院ではマルチン・デ・ラ・アスンシオン神父と同宿、召使の3名(トマス小崎、コスメ竹屋、炊事人ヨアキム榊原)、イエズス会修道院ではパウロ三木、ジョアン草庵五島、ディエゴ喜斉の3名であり、彼らは京都へと護送された。京都のフランシスコ会修道院では、ペトロ・バプチスタ神父、フランシスコ・ブランコ、ゴンサロ・ガルシア、フランシスコ・デ・サン・ミゲル、フェリペ・デ・ヘススの4名の修道士が逮捕された。フェリペ・デ・ヘススはたまたまサンフェリペ号に乗り合わせていて、つかまったのであった。その他名簿に記載されていた者7名(パウロ茨木、ルドビコ茨木、アントニオ、フランシスコ吉、ジョアン絹屋、ミゲル小崎、マティア)がその時逮捕された。合計24名であった。

 

京から長崎へ    1月3日上京一条の辻で判決を言い渡され、左の耳を切り落とされ、牛車に乗せられ、京都市内を引き回された。翌日は伏見の町、更に大阪、堺と見せしめのために引き回された。1月8日宣告文が発布され、長崎まで連行されて、処刑されると書かれてあった。1月9日早朝大阪を起点として西国への旅が始まった。途中2名が志願して逮捕され、総勢26名。山陽道を通って九州に入り、博多、唐津を経ての27日の旅であり、歩行距離は880キロであった。最後の夜は彼杵港より船で大村湾を渡り、時津港で過ごした。2月5日早朝時津を出発、浦上街道を通って西坂の丘に登った。途中ラザロ病院で小休止、ゆるしの秘跡に与る機会がイエズス会員には与えられた。

 西坂の丘では捕吏が首と手足を鉄の輪でとめ、夫々の十字架に固定した。周りは人々で一杯であり、群集の叫びと祈りの中で、二人の執行人が槍でもって両脇から同時に胸を突いて殉教させた。ヘスス神学生がその初めであり、最後は全ての人を見守ったペトロ・バプチスタ神父であった。

 

日本26聖人殉教の意義            日本のカトリック教会にとって、この殉教は最初の信仰の証しとして特別な意味を持っている。いかなる官憲の力の下にも屈しなかったカトリックの信仰の力強さを証明するものだからである。幾つかの殉教者の証言を列記して本稿を終わりたい。

「父上お聞きください。ご存知の通り、人のいのちははかなく、名誉も喜びも露の如きもの、一生の大半は苦しみと涙に満ちております。それにひきかえ、天のいのちは量りなき永遠の喜び、わたしはこれより天の国にまいりますが、わたしの死をわたしのことばの真実のしるしとしてお考え下さい」。ジョアン五島は父親にこう諭している。この世のいのちは一瞬であり、この世のいのちのことのみに捉われてはなるらないとの信念である。

「完徳は自分の気にいるように神に仕えることのうちにあるのではなく、神が私たちの中にお望みになるすべてを喜んで受け入れること 」。ペトロ・バプチスタ神父は殉教を熱望するヘロニモ・デ・ヘスス神父に手紙を書いて、み旨に従って生き延びて、フランシスコ会を日本に根付かせるようにと勧めたのであった。「どんな業も、自分の意志から出たのでは、決してよい業ではありません。私たちはすべてを神の御意志に委ねなければならないのです」。殉教とは与えられる死を受け入れる心にある。

 

 「主のために苦しむこと、それが私たちにとって口では言い表せない大きな宝だ」(ペトロ・バプチスタ)。殉教はキリストに倣う行為であると彼らは自覚していた。キリスト教の究極は十字架であり、主であり師であるイエス・キリストの死こそ殉教者の模範であり、理想なのである。

パウロ三木の最後のはなしは、殉教の何たるかを雄弁に語っている。「高札の宣告文によると、私たちはフィリッピンから日本にやってきたものどもとありますが、私はそうではありません。正真正銘の日本人です。私が処刑されるただ一つの理由は、私がイエス・キリストの教えを説き、教えたというかどによるのです」。

26人の内3人は少年であり、12歳から64歳までの人がいた。また中国人、インドポルトガル人、スペイン人、メキシコ人、日本人と国際色豊かであった。

 

尚1861年ピオ9世教皇は彼らを列福、翌年62年3月25日列聖した。

 

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