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       司教公式文書

 

 

2012年 司教年頭書簡

  人にしてもらいたいと思うことは何でも、

               あなたがたも人にしなさい(マタイ7:12)。

 

司教 マルチノ 平賀徹夫

仙台教区の皆さま、東日本大震災という未曾有の大艱難に襲われた2011年から、年は2012年へと改まりました。しかし新しい年になったからといって大震災でもたらされた苦しみが去ったわけではありません。2万人にも及ぶ亡くなられた方々・行方不明の方々を悼む悲しみは癒えていません。また、あの大地震・大津波によって家や仕事など生活の基盤を失うという大変な被害を受けたたくさんの方々とご家族、福島第一原発の爆発事故によりよその土地への避難を余儀なくされたたくさんのご家族の、苦悩や不安が薄れることなく今なお続いているという現実には、だれもが心を痛めずにはいられないでしょう。その方々はわたしたちの兄弟姉妹なのだと主イエスはわたしたちに教えられました。

 

大震災から学んだこと

昨年3月11日の大震災発生から5日目、カリタスジャパンの全面的な支援を得て「仙台教区サポートセンター(SDSC)」を立ち上げました。その仕事の大きな部分は、日本全国から被災地・被災者を助けたいと志願してくるボランティアへの対応です。そのために3月17日付けで、救援活動のベースとして教会関係の建物を提供してくれるようにと教区内の教会に書簡を送ったところ、ありがたいことに、不便を覚悟で、提供してよい旨の応答が4教会(塩釜、石巻、釜石、米川)からあり、続々と志願してくるボランティアの人たちを受け入れ、派遣することができました。SDSCと直接つながらなくとも、福島県・いわき地区はさいたま教区、岩手県・宮古教会は札幌教区からのボランティア支援活動を受け入れてくれましたし、被災地にある他の教会でも、直接支援に現れる方たちと共に被災された方々への援助にあたってくれたところもあります。仙台教区の信者の皆さんの中にもボランティア活動に参加された方も数多くおいででしょう。苦しんでいる方々(兄弟たち)のために手を差し伸べることは神の子らの業です。そしてありがたいことです。ところで、SDSCに登録・派遣されたボランティアの数は3,300人を超えましたが、その6割以上はカトリックでない方たちだったということです。人は、カトリックであろうがなかろうが、まさに善きサマリア人のように、苦しんでいる人を助ける神の子らの業を行うために走り寄るのです。多くのボランティアさんから、ほんの些細なことでもとても喜んでもらえてうれしかった、という体験が語られていました。マザーテレサの言葉にもありましたが、どれだけ大きなことをするかではなく、どんなに愛を込めて行うかが大切なのだということを体験した貴重な言葉でしょう。

 

日本の全教会と全世界からの支援

大震災後すぐ、日本のカトリック司教団も仙台教区の支援のために動いてくださいました。担当司教に新潟教区の菊地功司教様を決定し、そして菊地司教様は補佐として大阪教区事務局長の神田裕神父様、事務局に大阪教区職員の濱口一則氏を選任しました。お三方はSDSCとも連携しながら、教区の復興活動に重要な役割を担い続けてくださっています。また、仙台以外の日本の15教区も、司祭や修道者の派遣、被災地復興のプロジェクトを立ち上げるなど精力的に支援してくださいます。男女の修道会・宣教会の組織からも人材を送るなど、日本の教会が一つになり、いわばオールジャパンで仙台教区のために大きな犠牲を払ってくださっています。

仙台教区に寄せられる連帯・お見舞い・励ましの祈りやメッセージと救援金も驚くほどの数、額にのぼりました

。いろいろな国の司教協議会や教区から、国内外の小教区教会、学校、会社や団体、個人など、文字通り全世界各地から寄せられました。国内・海外あわせた義援金の総額は、6億5千万円を超えました。これは被災して壊れた教会、修道院、学校、幼稚園や施設・事業所の修繕費用に、また、被災された信徒個人への見舞金、生活支援金などに使われます。心のこもったこれらの支援は本当にありがたく、「世界は一つ」を実感させられます。

 

「新しい創造」基本計画と第2期に向けて

大震災からの復旧・復興に向けて、昨年4月18日に「仙台教区『新しい創造』基本計画」を、そして震災から半年後の9月11日付けで、「『新しい創造』基本計画、第2期に向けて」を発表しました。「洗礼によりキリストと結ばれることによって新しく創造されたものである私たち教会は、キリストが抱いたと同じ思いを抱きながら、一日一日、一層の『新しい創造』へと力強く歩みたい」というのが基本方針で、それは変わりません。わたしたちはますます強く、固く、キリストに結ばれたものとなり、キリストの心を心として、被災し苦しんでいる方々と共に歩んで行きたい、ということです。具体的には次の3点が挙げられます。@広く被災地と被災した人々を視野に置き、その中でも特に、支援の手が届きにくい「谷間」におかれた地域や人々に寄り添い支えることを目指す。Aその活動に多くの小教区が協力してあたることを通して「我々は主において一つ」を確認したい。Bその実施には痛みが伴うことを厭わない。

ベネディクト16世教皇は回勅『希望による救い』(28)で次のように教えています。「わたしたちの神との関係は、イエスとの交わりを通して築かれます。わたしたちは神との関係を、独りで、あるいは自分の力だけでもつのではありません。ところで、イエスとの関係とは、すべての人のあがないとしてご自身をささげたかたとの関係です。イエス・キリストとの交わりは、わたしたちを『すべての人のための存在』であるかたへと引き寄せます。そしてこれがわたしたちのあり方となります。イエス・キリストはわたしたちが他の人のために生きるよう命じます」。

 

結び

わたしたちはあの大震災で大変な苦しみを経験しました。しかし国内はじめ全世界からのありがたい善意の支援やボランティアの働きなどを通して、人間の良さに気づかされたこともたくさんあり、人間は神の似姿として創造されたということが真実であることを垣間見させてもらう気がしました。しかしあの苦しみの中にまだだたくさんの方たちがいます。苦しみを経験した者は苦しみの中にある人々の思いに共感できるはずです。今度は私たちの番です。わたしたちには兄弟であるその方々のことを忘れず、父である神の慈しみと助けを願い求め続ける義務があります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との主キリストの言葉をいただいています。損だという気持ちが起こったり、痛みが伴ったりするかもしれませんが、人任せではなく、一人ひとり「わたしをお使いください」と祈りながら他の人にかかわっていく生き方に進みたいものです。

それでは年の初めにあたり、わたしたちが求めたり思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることのおできになる方、父である神からの祝福が皆様お一人お一人の上に豊かに注がれますようにお祈りいたします。

2012年1月1日

 

2011年 司教年頭書簡

感謝と希望にあふれて 〜 仙台教区年開催の年に

 

司教 マルチノ 平賀徹夫

 

仙台教区の皆様、明けましておめでとうございます。新しい年、2011年を迎えました。すべての人の父である神の愛、神の御子・主イエス・キリストの恵み、そして、神の愛そのものであられる聖霊の祝福が皆様の上に豊かに注がれますように。

いよいよわたしたち仙台教区民にとって特別な年、「仙台教区年」開催の年となりました。仙台教区の前身である函館教区設立のとき(1891年)から数えると120年、司教座が函館から仙台に移されて教区名も仙台教区と改められたとき(1936年)から75年、この区切りの年にあたる今年、教区大会が開かれます。教区大会といっても大きな行事を一度だけ開催するという形ではなくて、今年の7月から来年の7月までの一年間を「仙台教区年」とし、この一年を通して各小教区共同体においてはもちろん、各県でも、そして仙台教区4県全体でもお互いのつながり・交わりを深めるダイナミックな動きを起こしそれに参加する中で、「わたしたちはバラバラなのではない。一つの仙台教区という教会である」ことを確認し、皆で喜び祝う年としたいのです。この教区年開催のために準備委員会が立ち上げられて準備の進め方が練られ、教区全体への呼びかけもなされ、たくさんの反応も返ってきました。今、機運は大きく盛り上がってきています。

「仙台教区年」は、仙台教区の司教座聖堂献堂の記念日であり保護の聖人である聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日に近い7月3日の主日に、仙台白百合学園レジナパーチェスホールで行われる開催行事をもって始まります。この一年をとおして仙台教区のわたしたちが、使徒言行録に記されている「信者たちは皆一つになって…神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた(2章44,47節)」という喜びの現実の一端を共に味わうことができたらよいと願っています。

「仙台教区年」のテーマは「感謝と希望」です。

感謝:函館教区設立から120年、仙台教区となって75年ですが、その間もそれ以前からもずっと、熱い思いに駆られた宣教師方の大きな働きがありました。またその信仰の真理を受けとめて信者となった方々も、力を尽くしてそれを大切に守り伝えてくれました。そういう“いままで”を思うとき、今、仙台教区を受け継いで形作っているわたしたちは、先人たちへの感謝の念を抱かずにはいられません。この意味での感謝でもあります。またそれにもまして、計り知れない摂理のうちに歴史を導いておられる主である神の限りない慈しみに対してささげ続ける感謝でもあります。

希望:この感謝は希望につながります。仙台教区のそれほど長くはない歴史ですが、それでもいろいろな苦難・危機の時がありました。しかしそれをとおして支え導いておられる神の愛をわたしたちは信じています。主の降誕祭で味わったみ言葉ですが、「すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れ(テトス2・11)」、その恵みは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっているからです。

終わりに、今年の目標として『テサロニケの信徒への第一の手紙』1章16節から18節をいつも目の前に掲げたいと思いますがいかがでしょうか。教区年に当たり、感謝と希望に裏打ちされているならば、それは無理で荒唐無稽な勧めの言葉ではないでしょう。次のようにあります。

「いつも喜んでいなさい。

    絶えず祈りなさい。

       どんなことにも感謝しなさい。

  これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

2011年1月1日

 

2009年 司教年頭書簡

殉教者に学び「信仰共同体」を作ろう

仙台司教 マルチノ 平 賀 徹 夫

仙台教区の皆様、神の独り子がわたしたちと同じ人間となられてから2009年目の年が明けました。年頭にあたり、神様の豊かな祝福を願いながら、皆様に心からのご挨拶を申し上げます。

昨年1124日の長崎での「ペトロ岐部と187殉教者列福式」の盛大な式典は、わたしたち仙台教区の信者にも深い感動をもたらすものでした。わたしたちは殉教者たちを信仰の尊い先達として記念しながら、彼らが世界のカトリック教会の中で公に「福者」と宣言されたことを、誇りを持って喜び合いました。今年は、あの誇りと喜びの意味を深く味わいながら、毎日の生活の中で信仰を証ししていく年であります。

仙台教区では教区宣教司牧評議会主催で活性化のための研修会を毎年開催してきました。今年度の研修のテーマは「小教区共同体作り」ですが、「信仰共同体」の良いモデルとして、400年前の教会の「組」のありようを挙げることができると思います。厳しい迫害の時代、信者たちは「組」を作り、その温かな交わり・固いきずなの中で、共に祈り、共に学び、仕え合い、そしてどのような人をも大切にして生きることを通して、信仰を証ししたのでした。

今年は殉教者たちの信仰に倣い、信仰生活で次のような点を意識してはいかがでしょうか。教会学校の子どもたちや青年たちも含め、皆様に呼びかけたいと思います。

@聖体訪問:殉教者たちの生き方の源泉にはいつも祈りがありましたが、それも、「聖体の組」が作られるほどに、聖体への思いを中心とする姿がありました。わたしたちも祈りを大切にしますが、特に、聖体として共にいてくださる主のお心を思い、そのみ前で(共同体と共に、教会のために、世界のために)祈ることを心がけてみましょう。

A共に学ぶ:教会は今、パウロ年を過ごしています。主イエス・キリストを知るために福音書を読み、またキリストの心を伝えるパウロの思いを学ぶために、共に聖書に親しむ機会を増やすことも心がけたいと思います。11歳のディエゴ林田は、十字架を担うイエスの様子を知っており、「イエスさまはカルバリオに歩いて行きました」と言って、自分も処刑地まで進んで歩いて行ったということです。

テキスト ボックス: 司教団と共に列福式に入場する平賀司教

 

B仕えること・慈悲の行い:「一つは唯一の神をすべてにまさって礼拝すること。次は自分のようにポロシモ(隣人)を大切にすること」(『どちりなきりしたん』第7章)が教会の使命、信仰生活の内容です。敵意に満ちた社会の中で、ミゼリコルディア(慈悲)の組は「慈悲の行い」を迫害者に対する答えとするよう努めたのでした。

 

C一人ひとりを大切にする:昨年1210日、国連世界人権宣言の60周年の記念にあわせて、日本の司教団は「すべての人の人権を大切に」というメッセージを発表しました。信仰や信条、民族・国籍などに関わりなく、神の似姿である一人ひとりを大切にすることを学び、そういう社会のために働くことを心掛けたいのです。共同体の中で互いに受け入れあい生かしあうために、わたしたちの思いや言葉、行いが、迷った一匹の羊を大切にするイエスの心とつながっているかどうかを見る感覚を、また、社会の動きが一人ひとりを大切にする方向のものかどうかを見る感覚を、磨きたいと思います。

 

では仙台教区の皆様、この一年も、父である神と主キリストへの賛美と感謝のうちに、そして聖霊の導きへの信頼も新たに、希望と喜びをもって愛のうちに歩む一年となりますように。新福者たちのお取り次ぎも頼みとし、主からの豊かな恵みが皆様の上に注がれますように祈りながら、祝福をお送りいたします。

2009年1月1日

 

 

2007年 年頭書簡

2007年 年頭書簡  光の子として歩もう

 仙台司教 マルチノ 平

 

 神の深いあわれみにより、夜明けの太陽はわたしたちに臨み、やみと死の陰にある人を照らし、わたしたちの歩みを平和に導く。
              ―― 教会の祈り・ザカリヤの賛歌(ルカ1章7879節)――

仙台教区の皆様、主のご降誕のお慶びを申し上げ、新年のご挨拶を申し上げます。

 昨年3月の司教叙階にあたりましては、教区の皆様は心をこめて祝ってくださり、教区が一つであることを目に見える形で表してくださいました。衷心より感謝を申し上げます。同時に、わたしたちが今後ますます心と力を合わせて、教区という一つの教会を表していくことができますようにと願っております。どうぞ宜しくお願い致します。

司教紋章にわたくしは「光の子として歩もう」という言葉を選びました。信仰の恵みと入信の秘跡によってわたしたちは皆、主に結ばれて光の子となりました。わたしたちは今すでに光の子なのです。この輝かしい身分を自覚して喜びのうちに歩むことがそのまま、わたしたちは教会(神によって呼び集めていただいたもの)であるということを表す「しるし」となりますし、教会がこの社会の中にあることの意味の表れともなると思い、この言葉を選んだのでした。いま始まったこの新しい年に、わたしたち教会が神の独り子によってもたらされた救いの目に見える「しるし」となるように、やみをも貫いて照らし導いてくださる主に信頼し、感謝と祈りをささげながら、そして光の子らの交わりをもっともっと深めることを目指しながら、手を携えて歩んで行きたいと思います。

 

世へのしるしである光の子ら

 

 「旅する教会は、その性質上、宣教者である」と言われます(第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』2項)。わたしたちは、父である神が世の救いのために御子を送ってくださり、その御子はご自分のもとにわたしたちを呼び集め、さらにわたしたちに聖霊を注ぎ強めて、救いの喜びを知らせる宣教者として世に遣わしてくださったと知っています。ただ、宣教とか使命とかと聞くと、その重厚そうな響きから、聖書もよくわからないしどうやればいいかもわからない、とても宣教など分ではないと尻込みしたくなるというのが大方のところだったのではないでしょうか。でも、「あなたがたは…神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです(1ペトロ2・9)」とあるように、わたしたちは「驚くべき光に招き入れられた者」でありますし、また、「キリストに結ばれて新しく創造された者(2コリント5・17)」でもあるのです。命のことばに直接に触れた使徒ヨハネも「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです(1ヨハネ3・1)」と呼びかけています。宣教の使命ということを重荷のように感じるという方は、わたしたちは皆このような身分にしていただいたのだという信仰の事実を見つめなおし、それを味わってみることから始めてみましょう。きっとそこから喜びと主への感謝と光の子として歩む力とが湧いてきます。こうして、主の力ある業がわたしたちを通して表れるのを喜んで受け止める姿勢が整えられ、それはとりもなおさず「しるし」になるという宣教の業へとつながっていきます。

 

 毎日の生活の中で

 

 では、具体的にはどういうことに表れるでしょうか。『教会の宣教活動に関する教令』は次のように教えています。

「キリスト教的愛は、人種や社会的地位、宗教とは無関係に、すべての人に向けられていて、いかなる利得も感謝も期待してはいない。神が無報酬の愛をもってわれわれを愛したように、信者も神が人を探し求めたのと同じ動機によって人を愛しつつ、自分の愛をもって人の上に心を配らなければならない。したがって、キリストが神の国の到来のしるしとしてすべての煩いと病気とをいやしつつ、すべての町や村をめぐったように、教会もまた、その子らを通してあらゆる身分の人々、特に貧しい人々や苦しんでいる人々と結ばれ、かれらのために喜んでつくすのである。事実、教会は、かれらとともに喜びと悲しみを分かち合い、生活のあこがれと迷いを知り、死の苦しみにあえぐ人々に同情する。平和を求める者には、福音による平和と光明をもたらしつつ、兄弟的対話をもって答えようと切望する」(12項)。

 これはルカ福音書10章の善いサマリア人の話と同じこととも言えるでしょう。どのような人にも隣人になっていくということです。聖パウロの勧める「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい(ローマ1215)」ということでもあります。また同じく聖パウロが霊の結ぶ実として挙げる「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテヤ5・22)」も思い浮かびますが、これら全部を心掛けるとすれば最初からお手上げともなりますから、この中の一つでいいと思います。例えば「親切」。光の子はどのような人にも親切である、というモットーはどうでしょうか。どのような人にもということですから、人種や国籍や宗教にもとらわれることなく、障害の有無も関係なく、また、教会では知り合いの間でも初めての人にも、家族の中でも学校でも職場でも、歩いているときもバスに乗っているときも、病気の人も見舞う人も、こうして「いつどこでも光の子はどのような人にも親切である」ということは、大人も子どもも心掛けることができるのではないでしょうか。

 

 光の源と結ばれているために

 

 わたしたちは驚くべき光の中へと招き入れられた光の子です。一方、光の子であるのは光そのもの、光の源に結ばれていてこそであるとも言えます。司教紋章に選んだ言葉はエフェソ書5章からのものですが、わたくしはその第10節も大切であると思いました。「何が主に喜ばれるかを吟味しながら」ということです。使徒ヨハネは「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行なってはいません(1ヨハネ1・6)」と記していますから、そのようなことも確かに起こり得るのでしょう。人はどんなときにもあれかこれか取捨選択して生きていくわけですが、何を基準としてそうするのでしょうか。わたしたち光の子として歩む者にとっての判断基準は、いつも光の源と結ばれているように、その主に喜んでいただけることを第一とする以外にないのではないでしょうか。

 何が主に喜ばれることかを吟味するには、その前に、主のお心はどのようであるかを分かっていなければなりません。そのためには頭と心と体を全部使って取り組むのがよい、と言ったら分かりやすいかと思います。

@頭を使って・・・神のことばを大切にし、聖書に親しむことです。

   わたしたちの支えとなる神のことばを読み、それを通して語りかけてくださる神の言葉に耳を傾けましょう。独りのときも、何人か集まったときも、できるだけ聖書を開き、聖書のことばを中心に置くことができたらいいと思います。

A心を使って・・・心からの祈りを唱えることです。

独りのときも何人かでのときも、祈りは口先だけでなく「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして(マタイ2237)」捧げる祈りとしたいと思います。

B体を使って・・・典礼を大切にし、できるだけ体をもって、すなわち行動的に参加することです。

   典礼に共に参加して神のことばを体で聞き、力をこめて心からの祈りを共に唱え、主に喜ばれるものとなるようにわたしたちの全部を奉献したいと思います。


 終わりに


 さて、小教区単独であったり複数の教会合同だったりでしたが、昨年は教区内13ヶ所で堅信式がありました。そして心強いことに、多くの教会で司祭召命を願う祈りが捧げられていました。現今の仙台教区の課題として司祭数の減少という問題があります。そこで皆様に、司祭召命が増えるようにとの教区挙げての一層の動きを起こすこともお願いしたいと思います。そしてこれも、わたしたち自身が光の子であることを喜んでいるという現実に立っての動きであるならば、必ず豊かな実りを見ることになるでしょう。昨秋仙台で、教区司祭召命の黙想会が開かれ、3名の青年たちの参加がありました。このような企画はこれからも続けられると思いますが、青少年が自らを主と教会に奉献しようとする決意は、彼らを支える教会(光の子らの集い)が喜びに溢れていることによってますます堅固なものとなって行くはずです。

 もう一つ書き加えたいことがあります。日本の教会の大きな喜びとして、今年中にはペトロ岐部神父をはじめとする百八十八殉教者の列福式が行われる予定です。その良い準備のためにと、2月4日からの8日間を「殉教者を想い、ともに祈る週間」とすると定められました。殉教者こそ主と結ばれた光の子として生涯をささげた方々と言えますが、信仰をもって生きていくための大きな示唆を受けることができると思います。わたしたちも心してこの列福式に向かいましょう。

 終わりに、仙台教区の皆様方お一人おひとりの上に、「わたしたちすべてのためにその御子をさえ惜しまず死に渡された方(ローマ8・32)」からの豊かな祝福をお祈りいたします。

2007年1月1日

 

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前教区長 溝部脩司教公文書