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2007年 年頭書簡 光の子として歩もう
仙台司教 マルチノ 平
賀
徹
夫
神の深いあわれみにより、夜明けの太陽はわたしたちに臨み、やみと死の陰にある人を照らし、わたしたちの歩みを平和に導く。
―― 教会の祈り・ザカリヤの賛歌(ルカ1章78〜79節)――
仙台教区の皆様、主のご降誕のお慶びを申し上げ、新年のご挨拶を申し上げます。
昨年3月の司教叙階にあたりましては、教区の皆様は心をこめて祝ってくださり、教区が一つであることを目に見える形で表してくださいました。衷心より感謝を申し上げます。同時に、わたしたちが今後ますます心と力を合わせて、教区という一つの教会を表していくことができますようにと願っております。どうぞ宜しくお願い致します。
司教紋章にわたくしは「光の子として歩もう」という言葉を選びました。信仰の恵みと入信の秘跡によってわたしたちは皆、主に結ばれて光の子となりました。わたしたちは今すでに光の子なのです。この輝かしい身分を自覚して喜びのうちに歩むことがそのまま、わたしたちは教会(神によって呼び集めていただいたもの)であるということを表す「しるし」となりますし、教会がこの社会の中にあることの意味の表れともなると思い、この言葉を選んだのでした。いま始まったこの新しい年に、わたしたち教会が神の独り子によってもたらされた救いの目に見える「しるし」となるように、やみをも貫いて照らし導いてくださる主に信頼し、感謝と祈りをささげながら、そして光の子らの交わりをもっともっと深めることを目指しながら、手を携えて歩んで行きたいと思います。
世へのしるしである光の子ら
「旅する教会は、その性質上、宣教者である」と言われます(第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』2項)。わたしたちは、父である神が世の救いのために御子を送ってくださり、その御子はご自分のもとにわたしたちを呼び集め、さらにわたしたちに聖霊を注ぎ強めて、救いの喜びを知らせる宣教者として世に遣わしてくださったと知っています。ただ、宣教とか使命とかと聞くと、その重厚そうな響きから、聖書もよくわからないしどうやればいいかもわからない、とても宣教など分ではないと尻込みしたくなるというのが大方のところだったのではないでしょうか。でも、「あなたがたは…神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです(1ペトロ2・9)」とあるように、わたしたちは「驚くべき光に招き入れられた者」でありますし、また、「キリストに結ばれて新しく創造された者(2コリント5・17)」でもあるのです。命のことばに直接に触れた使徒ヨハネも「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです(1ヨハネ3・1)」と呼びかけています。宣教の使命ということを重荷のように感じるという方は、わたしたちは皆このような身分にしていただいたのだという信仰の事実を見つめなおし、それを味わってみることから始めてみましょう。きっとそこから喜びと主への感謝と光の子として歩む力とが湧いてきます。こうして、主の力ある業がわたしたちを通して表れるのを喜んで受け止める姿勢が整えられ、それはとりもなおさず「しるし」になるという宣教の業へとつながっていきます。
毎日の生活の中で
では、具体的にはどういうことに表れるでしょうか。『教会の宣教活動に関する教令』は次のように教えています。
「キリスト教的愛は、人種や社会的地位、宗教とは無関係に、すべての人に向けられていて、いかなる利得も感謝も期待してはいない。神が無報酬の愛をもってわれわれを愛したように、信者も神が人を探し求めたのと同じ動機によって人を愛しつつ、自分の愛をもって人の上に心を配らなければならない。したがって、キリストが神の国の到来のしるしとしてすべての煩いと病気とをいやしつつ、すべての町や村をめぐったように、教会もまた、その子らを通してあらゆる身分の人々、特に貧しい人々や苦しんでいる人々と結ばれ、かれらのために喜んでつくすのである。事実、教会は、かれらとともに喜びと悲しみを分かち合い、生活のあこがれと迷いを知り、死の苦しみにあえぐ人々に同情する。平和を求める者には、福音による平和と光明をもたらしつつ、兄弟的対話をもって答えようと切望する」(12項)。
これはルカ福音書10章の善いサマリア人の話と同じこととも言えるでしょう。どのような人にも隣人になっていくということです。聖パウロの勧める「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい(ローマ12・15)」ということでもあります。また同じく聖パウロが霊の結ぶ実として挙げる「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテヤ5・22)」も思い浮かびますが、これら全部を心掛けるとすれば最初からお手上げともなりますから、この中の一つでいいと思います。例えば「親切」。光の子はどのような人にも親切である、というモットーはどうでしょうか。どのような人にもということですから、人種や国籍や宗教にもとらわれることなく、障害の有無も関係なく、また、教会では知り合いの間でも初めての人にも、家族の中でも学校でも職場でも、歩いているときもバスに乗っているときも、病気の人も見舞う人も、こうして「いつどこでも光の子はどのような人にも親切である」ということは、大人も子どもも心掛けることができるのではないでしょうか。
光の源と結ばれているために
わたしたちは驚くべき光の中へと招き入れられた光の子です。一方、光の子であるのは光そのもの、光の源に結ばれていてこそであるとも言えます。司教紋章に選んだ言葉はエフェソ書5章からのものですが、わたくしはその第10節も大切であると思いました。「何が主に喜ばれるかを吟味しながら」ということです。使徒ヨハネは「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行なってはいません(1ヨハネ1・6)」と記していますから、そのようなことも確かに起こり得るのでしょう。人はどんなときにもあれかこれか取捨選択して生きていくわけですが、何を基準としてそうするのでしょうか。わたしたち光の子として歩む者にとっての判断基準は、いつも光の源と結ばれているように、その主に喜んでいただけることを第一とする以外にないのではないでしょうか。
何が主に喜ばれることかを吟味するには、その前に、主のお心はどのようであるかを分かっていなければなりません。そのためには頭と心と体を全部使って取り組むのがよい、と言ったら分かりやすいかと思います。
@頭を使って・・・神のことばを大切にし、聖書に親しむことです。
わたしたちの支えとなる神のことばを読み、それを通して語りかけてくださる神の言葉に耳を傾けましょう。独りのときも、何人か集まったときも、できるだけ聖書を開き、聖書のことばを中心に置くことができたらいいと思います。
A心を使って・・・心からの祈りを唱えることです。
独りのときも何人かでのときも、祈りは口先だけでなく「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして(マタイ22・37)」捧げる祈りとしたいと思います。
B体を使って・・・典礼を大切にし、できるだけ体をもって、すなわち行動的に参加することです。
典礼に共に参加して神のことばを体で聞き、力をこめて心からの祈りを共に唱え、主に喜ばれるものとなるようにわたしたちの全部を奉献したいと思います。
終わりに
さて、小教区単独であったり複数の教会合同だったりでしたが、昨年は教区内13ヶ所で堅信式がありました。そして心強いことに、多くの教会で司祭召命を願う祈りが捧げられていました。現今の仙台教区の課題として司祭数の減少という問題があります。そこで皆様に、司祭召命が増えるようにとの教区挙げての一層の動きを起こすこともお願いしたいと思います。そしてこれも、わたしたち自身が光の子であることを喜んでいるという現実に立っての動きであるならば、必ず豊かな実りを見ることになるでしょう。昨秋仙台で、教区司祭召命の黙想会が開かれ、3名の青年たちの参加がありました。このような企画はこれからも続けられると思いますが、青少年が自らを主と教会に奉献しようとする決意は、彼らを支える教会(光の子らの集い)が喜びに溢れていることによってますます堅固なものとなって行くはずです。
もう一つ書き加えたいことがあります。日本の教会の大きな喜びとして、今年中にはペトロ岐部神父をはじめとする百八十八殉教者の列福式が行われる予定です。その良い準備のためにと、2月4日からの8日間を「殉教者を想い、ともに祈る週間」とすると定められました。殉教者こそ主と結ばれた光の子として生涯をささげた方々と言えますが、信仰をもって生きていくための大きな示唆を受けることができると思います。わたしたちも心してこの列福式に向かいましょう。
終わりに、仙台教区の皆様方お一人おひとりの上に、「わたしたちすべてのためにその御子をさえ惜しまず死に渡された方(ローマ8・32)」からの豊かな祝福をお祈りいたします。
2007年1月1日
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