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◇◇ 主日の説教 ◇ C年 ◇   担当 佐々木 博 神父

王であるキリスト・C年(10.11.21

「王であるキリストの実像を求めて」

教会歴の一年の終わりに祝う王であるキリスト 

   教会暦の一年は、本日の祭日によって終わり、来週からは、また待降節第一主日によって新しい年・A年が始まります。ところで、今日の祭日は、1925年、時の教皇ピオ11世によって、325年に開かれた第一回目の公会議であるニケア公会議の1600年記念祭として、王であるキリストをテーマにした祭日として定められました。正確な表題(ひょうだい)は「われらの主イエス・キリスト、全世界の王の祭日」であります。 

イエス・キリストはどんな王なのか 

では、まずイエス・キリストがなぜ王なのか、早速、旧約聖書の伝統にさかのぼって調べて見たいと思います。

  旧約聖書では、まず、神ご自身が王というイメージで登場しますが、権力を揮う(ふる)ではなく、特に貧しい人々、弱い立場に置かれている人々、助けを必要とする人々を優先的に保護する王の姿です。たとえば、詩編で神がどのような王なのかが、次のように美しく歌われております。「あなたは必ずご覧になって 御手(みて)労苦と悩みを委ねる(ゆだ)人を 顧みて(かえり)ださいます。不運(ふうん)な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。・・・主は世々限りなく王。・・・主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け その願いを聞き、彼らの心を確かにし みなしごと虐げられて(しいた)いる人のために 裁きをしてくださいます。・・・」と(詩編10.14-18)。

  さらに、救い主の到来を預言したメシア預言は、ダビデ王を理想化したイメージで、語られるようになり(サムエル記下7.8-17参照)、特にイザヤの預言によって、メシアが、貧しい人、弱い立場に置かれている人、病気や障害で苦しんいる人たちに優先的に関わる姿も預言されました。ですから、ルカ福音書とマタイ福音書では、イエスの働きを洗礼者ヨハネの弟子たちに伝える次のような場面があります。「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人の弟子にこうお答えになった。『行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている』」と(ルカ7.22;マタイ11.5参照)。

このようなイエスの働きは、神の愛による王的支配が、わたしたちの只中で実現して行く神の国の到来のしるしにほかなりません。ですから、イエスによって実現した神の王的支配は、わたしたちの体の病気をいやすだけでなく、社会秩序まで回復するという、まさにわたしたち人間の総括的な救いが実現することなのです。ですから、目の見えない人が見えるようになるということは、決してただ単に、体の病気としての視覚障害がいやされるだけではなく、実は、心の目が開かれるという根本的な体験を象徴しているのではないでしょうか。すなわち、わたしたちが罪のために自分の歩むべき道を見失っている状態から、歩むべき神への道に立ち返ることを示しているのです。また、足なえは、罪のために神の前での正しい歩みにくじけてしまった状態を表しており、その状態から解放されることによって神のもとに立ち返る力が与えられることを語っているのです。 

仕えられるためではなく仕えるために 

さらに、イエスがどのような王であるかを弟子たちにはっきりと教える場面があります。それは、弟子のヤコブとヨハネが、イエスが栄光を受けられるとき、自分たちを右と左に座らせてくださいと願ったときであります。そこで、弟子たち一同に向かって彼らの生き方の基本について極めて大切な忠告をなさいました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い(えら)たちが権力を振っている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(みのしろきん)として自分の命を献げる(ささ)ために来たのである」と(マルコ10.42)。イエスこそ仕えられる王ではなく、徹底して仕える王、しかもわたしたちの救いのためにご自分の命までもささげてくださったのです。

死に至るまで御父に従順であられたイエス

さらに、イエスの王としてのイメージは、御父に対する全面的な従順によって見事に示されます。

  それは、特に十字架上での受難を目前(もくぜん)にし、ゲツセマネという所で祈られたときであります。イエスはご自分の苦しみを思い、ひどく恐れて悶え(もだ)始められ、そして祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」と。そして、二度目も三度目も「父よ、わたしが飲まない限りこの(さかずき)が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心(みこころ)が行われますように」と祈られたのです。イエスは、徹底して父である神に従順な王であります。ですから、この王であるイエス・キリストを(たた)える古い賛美歌は、パウロの手紙の中で次のように引用されております。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえって自分を無にして、(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが、イエスの御名(みな)にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と(おおやけ)()伝えて、父である神をたたえるのです」と(フィリピの信徒への手紙、2.6-11)。

  このように徹底して仕える王であるキリストの王職に、実は、わたしたちが洗礼を受けたときから、あずかっています。そのことを、ヨハネ・パウロ二世教皇は、その使徒的勧告で次のように強調しておられます。

  「信徒は、宇宙の主であり王であるキリストに結ばれているので、その王としての使命に参加し、歴史の中で神の国を広げるように召されています。信徒がキリスト者としての王職を行使(こうし)するのは、まず第一に、自分のなかの罪の支配(ローマの信徒への手紙、6.12参照)に打ち勝つための霊的が戦いにおいてです。次に、すべての兄弟姉妹、特に最も小さい者にうちにおられる(マタイ福音書、25.40参照)イエスご自身に、愛と正義をもって仕えるために、信徒は自分自身をささげものとするのです」と(『信徒の召命と使命』14項)。

  わたしたちの共同体もイエスにならって互いに仕え合う奉仕の共同体に成長できるように、そして、イエスのように日々の生き方において徹底して天の御父に従い、仕えることができるように共に祈りたいと思います。

王であるキリスト

年間第33主日・C年(10.11.14

「証しするわたしたちの信仰」

殉教者たちに倣うべきわたしたちの信仰

三年前の20076月1日、教皇ベネディクト十六世は、「ペトロ岐部と187殉教者」の列福を承認されました。そして、この日本における最初の列福式は、翌年の20081124日に長崎市の県営野球場で午前12時から午後340分にわたってあいにくの悪天候の中、いとも盛大に行われました。わたくし自身も、この列福式に参加できた感動は、決して忘れることはできません。

  今回の188福者には、仙台教区内の殉教者は一人も含まれておりませんが、お隣の新潟教区の米沢市の53人の殉教者が列福されました。米沢市の殉教地には十字架と聖母マリアと使徒ヨハネの像と石碑(せきひ)立てられております。三年前ですか、秋の巡礼でこの殉教地を訪れて、初めて米沢の殉教者たちのことを知ることができました。その殉教地の地名は、北山原(ほくさんばら)と呼ばれています。

  ここで、また改めて、16世紀末の米沢教会のキリシタンについて少し説明したいと思います。1590年、キリシタン大名蒲生(がもう)(うじ)(さと)、会津の黒川城に入ったとき、東北の人たちは初めてキリスト教に出会うことができたのです。やがて、1611年、仙台へ派遣されたフランシスコ会司祭ルイス・ソテロが、途中米沢に立ち寄ったことによって初めてその地にキリシタンの小さな共同体が誕生しました。この共同体の世話役は、上級武士ルイス(あま)(かす)()衛門(えもん)と二人の息子ミカエル(あま)(かす)()()衛門(もん)、ビンセンチオ黒金(くろがね)(いち)兵衛(びょうえ)です。この(あま)糟家(かすけ)は代々上杉藩に仕えていました。そこで、幕府から米沢に追われた上杉藩士たちの貧しさが、実は、上下の身分を超えて互いを思い、感謝し、心を一つにする善良で素朴な人々を育てたのであります。ところで、1610年頃、()衛門(えもん)は、江戸でソテロ神父から洗礼を受け、ルイスと呼ばれるようになりました。このルイスを中心とした米沢教会には、司祭は常駐しておりませんでした。まさに司祭不在の教会で、信徒は「組」呼ばれる共同体を組織し、また、「聖母の組」、「聖体の組」など信心共同体をも育てました。そこで、信徒たちは、定期的に集まり、霊的読書と祈りを土台に、孤児の世話、病人や貧しい人たちの支援など愛の実践にも励みました。ですから、年に数回巡回する司祭は、この信者の共同体とよく連絡を取って、教会の教えと霊性を学ばせ、信者のためにはゆるしの秘跡とミサをささげるだけだったのです。それでも、確実に教会は成長し、当時、米沢では3000人以上の信者がいたと上杉藩の文書に記されています。けれども、とうとう徳川幕府のキリシタン迫害の方針に従い、1629112日、雪で覆われた北山(ほくさん)(ばら)糠山(ぬかやま)そして新藤(しんどう)(だい)三か所で、53人が信仰を証しするために首をはねられたのです。男性30人、女性23人、その内5歳以下の幼児が9人もおりました。刑場の奉行(ぶぎょう)は、叫びました。「ここで死ぬ者たちは信仰のために命を捨てるいさぎよき人たちである。みな者土下座(どげざ)するようお願い申す」と。 

迫害はキリストを証しする絶好のチャンスである 

ところで、今日の福音の後半で、イエスは教会が、必ず迫害を経験しなければならないこと、そして、その迫害こそ信仰を証しする絶好のチャンスであることを、はっきりと教えてくださいます。「これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しする機会となる」と。ちなみに殉教という言葉は、ギリシャ語では「証しする」と言う意味も含まれています。ですから、いのちを賭けて信仰を証しすることが殉教なのであります。つまり、わたしたちの信仰は、命を賭けてでも証ししなければならないのです。それは、恐れを知らない強い信仰です。まさに信仰の勇気です。イエスは教えてくださいます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と(マタイ10.28)。また、殉教者たちがその苦しみと死に耐えることができたのは、彼らが神に対する揺るぎない信頼を持っていたからではないでしょうか。ですから、自分の力を頼りすることなどは、決してしなかったのです。そして、この信頼は、深い謙遜を彼らの中に生みだしました。それは、まさにイエスに倣うことでありました。イエスは、弟子たちとの最後の晩さんの(あと)、ゲッセマネという所で祈られました。まさに、最も厳しい受難を目前にしながら、最後の最後まで天の御父に対する信頼を見事に貫かれました(つらぬ)。それは、同時にイエスの謙遜の極みでもありました。つまり、自分の意思ではなく、神の意思の成就を願われたのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この(さかずき)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適う(かな)ことが行われますように」と(マルコ14.36)。ここに、殉教を生み出す「謙り(へりくだ)」の原点があります。すなわち、イエス・キリストに、「謙遜」においてと倣うということが、「殉教」において見事に実現するのであります。

  ところで188福者の筆頭に挙げられたペトロ岐部(きべ)神父ですが、イエズス会の司祭志願者時代、教会の中にもあった人種差別に耐えながら、インド、パキスタン、イラン、ヨルダンへと苦しい旅を続け、やっと1620年ローマのイエズス会本部にたどりつきました。そして、同じ年の1115日めでたく司祭に叙階されました。けれどもその後(あと)迫害の嵐が吹きまくっている祖国に十六年ぶりに殉教を覚悟の(うえ)、戻ったのです。そして、まさに文化、国境、人種を超えたところでイエス・キリストの「謙遜」に限りなく近づけることを、壮絶な穴ずりの極刑によって「証し」する勇気が湧いてきたのだと思います。もはや、「沈黙する神」ではなく、「苦しみを共にする神」がペトロ岐部神父を支え、共におられてのではないでしょうか。ペトロ岐部神父をはじめ、多くの殉教者が見つめた、その視線の先にはイエスの示された「復活」への希望がきっとあったはずです。わたしたちにとって、「復活」の希望のない「苦難」はありえないのです。この希望に向かう信頼こそが、わたしたちを謙らせ(へりくだ)、「殉教」への勇気へと導いてくれるはずです。

  最後に、188福者の一人アダム荒川の殉教を紹介したいと思います。1614131日、徳川家康のキリシタン禁令が出たころ、アダムは天草の教会でガルシア・ガルセス神父に仕えていました。70歳を過ぎたのもかかわらず、教会の中のさまざまな仕事に励み、信徒の指導の手伝いもしていました。ところが、迫害が激しくなり、城主寺沢広高は、「キリシタン全員の信仰を捨てさせよ」とう命令をくだしました。そこで、この指導者であるアダム荒川の捜索が始まりました。そのことを一人のキリシタンが荒川に知らせましたが、早速、ひざまずいて神に感謝し、殉教をまっとうする恵みを願ったそうです。そして、信仰を捨てるように、役人に責められた()とき、彼は勇敢に答えました。「神様に背け、とわたくしにおっしゃるのか。自分の神様を辱かしめよと申されるのか。川村様のご命令であろうと、天下の将軍様のご法度(はっと)であろうと、それだけはご勘弁なされたい。わたしはキリシタンでござる。真のキリシタンはキリスト様のみ教えを命よりも大切にいたしておりまする。どのような責め苦を受けようとも、真の神、キリスト様に背くことはでき申さぬ」と。

わたしたちも殉教者たちの素晴らしい信仰に倣い、いのちを賭けて信仰を力強く証しできるように共に祈りたいと思います。

aアダム荒川の墓

年間第32主日・C年(10.11.7

「永遠の新しいいのちへのよみがえり」

復活信仰の芽生え

旧約聖書においては、人間は死ぬと神から切り離され、もはや神の恵みを期待できないというのが一般的な考えです。ですから、例えば詩編88編には、次のような極めて悲観的な祈りがあります。

  「あなたが死者に対して驚くべき御業(みわざ)をなさったり 死者の霊が起き上って あなたに 感謝したりすることがあるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが 滅びの国であなたのまことが 語られたりするでしょうか。闇の中で驚くべき御業(みわざ)が 忘却(ぼうきゃく)の地で恵みの御業(みわざ)が 告げ知らされたりするでしょうか」と(11節〜13節)。

  ところが、今日(きょう)の第一朗読がとられている『旧約聖書続編』には、明らかに復活を示す箇所が、存在するのです。それは、殉教者の死をどのように受け止めるべきかという文脈のなかで語られるのです。つまり、神を信じて殉教したのに、死後も神の恵みにあずかることができないはずはないとう願いが芽生えたのです。したがって、今日(きょう)の第一朗読が雄弁に語っているような「復活信仰」が誕生したのです。

  このマカバイ記二ですが、紀元前2世紀前半に起こったシリアのアンティオコス四世の迫害に対するユダヤ人の反乱(マカバイ戦争)と、ユダ・マカバイによるエルサレム奪回(だっかい)と神殿清めの出来事を描いている歴史書です。実際に書かれたのは、紀元前124年と考えられます。とにかく、今日の箇所は、七人の兄弟の殉教を、復活の視点で感動的に描いています。

  「その日、七人の兄弟が母親と共に捕えられ(とら)(むち)や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。・・・二番目の者も息を引き取る間際(まぎわ)に言った。『邪悪(じゃあく)な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠のいのちへとよみがえらせてくださるのだ』。・・・四番目の者も言った。『たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ちあがらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである』と」。

  復活に対する見事な信仰告白ではないでしょうか。

  実は、初代教会において、四世紀ごろから、祭壇を殉教者の墓の上に置くようになり、やがて殉教者の聖遺物を祭壇に埋め込むようになったのです。この祭壇にも、195593日、小林司教によって聖遺物が組込まれました。

イエスの死と復活を祝う祭壇は、復活を信じて命をささげた殉教者たちに支えられているのです。 

死者の中から復活する

次に、今日の福音ですが、ルカ福音書の951節から始まったイエスのエルサレムに向う旅は終わり、十字架の待つエルサレムに入ってからの出来事を伝えています。

  今日の箇所は、イエスが、エルサレムの神殿で当時の宗教指導者のサドカイ派の人々と復活について論争したことを伝えています。このサドカイ派ですが、紀元前200年頃から始まったエルサレムの神殿を中心とするユダヤ教の祭司や貴族らの保守的かつ現世的集団で、モーセ五書つまり、創世記から申命記までの五つの書物のみを聖典として認め、天使や復活は信じていない一派です。ですから、イエスに、申命記255節と6節で述べられている結婚に関する規定を用いて復活について難問を投げかけます。この規定は、家名(かめい)を存続させ、財産が他人に渡るのを防ぐために次のよう定めています。

  「兄弟と共に暮らしていて、そのうちの一人が子どもを残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いで(とつ)はならない。亡父(ぼうふ)の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻とし、兄弟の義務を果たし、彼女の生んだ長子(ちょうし)に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」と。

  そこで、サドカイ派の人たちが、イエスに尋ねます。

  「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子どもを残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか」と。

  これに対して、イエスは、彼らの主張に二つの誤解があることを、指摘なさいます。まず、「次の世」でのいのちのあり方(かた)は、「この世」のあり方(かた)とは、全く異なるので、「この世」のいのちのありさまで、「次の世」のあり方(かた)推測(すいそく)するのは間違いです。つまり、「この世の子ら」は死だけを考えるので、子孫をもうけ、自分が生き残れるように、どうしても結婚しなければならないのです。けれども、「死者の中から復活するのにふさわしい」者は、もはや死によっても終わらない永遠のいのちに生かされているので、めとることも嫁ぐ(とつ)ことも必要なくなるのです。ですから、イエスは、つぎのように説明なさいます。

  「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と。

  すなわち、復活させられる「神の子たちは」全く新しいいのちに生かされるので、お互い兄弟姉妹として生きることができるのです。それは、救いが完成し、この世が終わるとき、わたしたちは全く新たな世界によみがえるので、新しい生き方に変えられるのです。ですから、マルタは、次のような復活に対する信仰告白をしました。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と。そこで、イエスは、次のように宣言なさいました。

  「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と(ヨハネ福音書1124節〜26節)。

  ですから、教会は、死者のためのミサの叙唱で次のように祈ります。

  「キリストのうちにわたしたちの復活の希望は輝き、死を悲しむ者も、とこしえのいのちの約束によって慰められます(なぐさ)。信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった(のち)も、天に永遠のすみかが備えられています」と。

  次に、サドカイ派の二つ目の誤解ですか、シナイ山でのモーセの体験についてです。つまり、すでに過去の人物である「アブラハムの神」であり続けることを強調し、死んだ(のち)も神との密接な関わり中にこそ、先祖たちが、今も生きていることを知らせました。「神は生きている者の神なのです」。

  最後に、わたしたちが受けた洗礼の恵みこそ、復活のいのちに生かされることにほかならないことを、パウロの次のような手紙によって確認したいと思います。

  「わたしたちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父(おんちち)の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」と(ローマの信徒への手紙、64節〜5節)。

復活のキリスト

年間第31主日・C年(10.10.31

「神の愛に気づくとき」

あなたはすべての人を憐れむ

今日(きょう)の第一朗読は、紀元前一世紀にギリシャ文化の中心地であるエジプトのアレキサンドリアで書かれた「知恵文学」の代表作『知恵の書』からとられています。しかも、今日(きょう)の箇所は、神の民イスラエルの歴史における神の知恵の働きを語る第三部に当たります()。そこで、イスラエルの人々が、エジプトの奴隷の家から解放されるとき、神がエジプト人に対して示された忍耐は、神の愛にほかならないことが、次のように強調されています。

  「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる(みす)。あなたは存在するものすべてを愛し、お造り(つく)になったものを何一つ嫌われない」と。

  神の全能の力は、まさに憐れみに見事に示されるので、罪人を回心させることができるのです。なぜなら、神は「罪を見過ごされる(みす)」つまり、罪を赦されるから、神のもとに立ち帰ることができるのです。すなわち、先に神の赦しがあるから、わたしたちが回心できるのです。このことは、すでに第二イザヤの口をとおして次のように語られています。

  「思い起こせ、ヤコブよ イスラエルよ、あなたはわたしの(しもべ)。わたしはあなたを形づくり、わたしの(しもべ)とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。わたしはあなたの背き(そむ)を雲のように 罪を(きり)のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った(あがな)」と(イザヤ書4421節〜22節)。

  ですから、神の愛から離れることが、罪だとすれば、まさに神の深い憐れみの愛に気づいたとき、神のもとに戻ることができるのです。そして、神の愛に包まれることが、救いにほかなりません。 

ぜひあなたの家に泊まりたい

この救いの感動的な体験を、今日の福音が語っています。それは、ザアカイという徴税人が自分の家にイエスをお迎えできたという、神によって準備された出来事です。ガリラヤから出発してエルサレムに向ったイエスの旅が終わりに近づいたときのことです。イエスは、ヨルダン川の下流の町エリコに入られました。イエスがこの町を通られるという情報は、瞬く(またた)()に広がったのでしょうか。群衆が集まって来てイエスを取り囲みました。そこに居合わせた(いあ)ザアカイも、イエスがどんな人か是非とも一目(ひとめ)見たかったのです。けれども、あいにく彼は背が低かったので、群衆に遮られて(さえぎ)イエスを見ることができませんでした。そこで、彼は、走って(さき)回り(まわ)し、いちじく(ぐわ)の木に登りイエスが通り過ぎるのを待っていたのです。ルカは、「この人は徴税人の(かしら)で、金持ちであった」と簡潔(かんけつ)に紹介していますが、彼は、人々からは嫌われていた人物であったことに注目しなければなりません。とにかく、当時のユダヤは、ローマ総督(そうとく)の支配下にあり、まず、ユダヤ人には人頭税(じんとうぜい)が課せられ、ローマの役人によって徴収(ちょうしゅう)されていました(ルカ福音書2022節参照)。そのほか、交通税と関税とがあって、交通の要所には(しゅ)税所(ぜいじょ)がありそこで税金を納めなければなりませんでした。しかも、これらの税金の取り立ては、請負(うけおい)制度であり、徴税人(ちょうぜいにん)はその請負業者だったのです。ですから、ユダヤの征服者ローマのために税金を取り立てる徴税人(ちょうぜいにん)は、ローマの支配者に協力しているだけでなく、不正な取り立てをすることによって私服をこやしていたので、ユダヤ人から罪人呼ばわり(つみびとよ)されて軽蔑され嫌われていたのです(マルコ福音書21317節参照)。とにかく、この徴税人(ちょうぜいにん)(かしら)であり金持ちのザアカイが、イエスに是非お目にかかりたいと、先回りして木に登って待っていたその情熱と努力の理由について、福音記者ルカは全く触れていません。ただ、この3節の「見ようとした」とう表現は、ギリシャ語の原文では「見ることを捜していた」になりますので、ザアカイの救い主を求める心の様子を表していると言えます。

  そこで、イエスはそのいちじく(ぐわ)の木の下、「その場所」に来て、上を見上げて(みあ)ザアカイに優しく呼びかけます。ここで言われている「その場所」とは、イエスとザアカイとの出会いの場所として、神によって前もって決められた場所だったのです。また、イエスの「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」という呼びかけに、ザアカイは直ちに喜んで従います。この「今日」こそは、まさに神によって用意された特別な時であり、イエスの「泊まりたい」とう意思(いし)表示(ひょうじ)は、直訳するならば「泊まることになっている」となります。 

今日、救いがこの家に訪れた

また、神の思いと、人間の思いの違いは、人々のつぶやきにはっきりと示されました。つまり、イエスが、ザアカイの家に宿を取られたのを見ていた人々は、早速、つぶやき始めたのです。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と。とにかく、人々は、ザアカイのような徴税人、すなわち「罪人」が、最初に救われるはずがないと考えていたのです。

  けれども、ザアカイは、立ちあがってイエスに自分の生き方を変える決意を約束します。

  「主よ、わたしは財産の半分を貧しいい人々に施します(ほどこ)。また、だれかからだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と。

  とにかく、ザアカイは、自分が罪人であると自覚していたからこそ、救い主を待ち望んでいたのではないでしょうか。たしかに、金銭的には大変恵まれていたにもかかわらず、人々からは嫌われ、罪人呼ばわりされていたので、心は決して満たされてはいなかったようです。ですから、彼の心は、(まこと)の救いに飢え渇いていたのかも知れません。だからこそ、木に登ってでも是非イエスに会いたいと思っていたのです。ザアカイのように神の救いを待ち望む魂の叫びを、詩編は次のように見事に(うた)っています。

  「涸れた()谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、いのちの神に、わたしの魂は渇く。・・・昼、主は命じて慈しみをわたしに送り 夜、主の歌がわたしと共にある。わたしのいのちの神への祈りが。・・・なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻く(うめ)のか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。『御顔(みかお)こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」(詩編422節〜12節)。このように、救いを捜していたザアカイは、失われた者を捜す神に出会うことができました。ですから、イエスは宣言なさいます。「今日(きょう)、救いがこの家を訪れた。・・・人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と。日々、わたしたちのそれぞれの家庭にイエスをお迎えできるために、まず、わたしたち一人ひとりを捜し求めておられる神の愛に気づくことが肝心です。なぜなら、そのときにこそ固く閉ざしていた心の扉をひらくことができるからです。イエスは、いつも外から戸を愛によって叩き続けておられますが、内側から扉を開かなければ、イエスは中に入ることができません。ヨハネの黙示録は、この神との出会いの神秘を、次のように描いています。

  「見よ、わたしは戸口(とぐち)に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と食事を共にし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録、320節)。

年間第30主日・C年(10.10.24

「へりくだる者は高められる」

アブラハムのうぬぼれ

聖書が語る救いの歴史において、最初に信仰の生き方の模範を示してくれたアブラハムですが、実は、晩年に近づいても一向に神の約束が実現しないことに焦り(あせ)を感じ、自分の考えでことを決めてしまいました。つまり、「あなたの子孫を大地の砂粒(すなつぶ)のようにする。大地砂粒(すなつぶ)が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」(創世記1316節)という神のご計画にもかかわらず、彼が百歳近くなっても一人の子どもも授かりません(さず)でした。そこで、アブラハムは、自分で勝手に養子縁組を決めてしましました。ですから、神に尋ねます。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。・・・ご覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の(しもべ)が跡を継ぐことになっています」と(同上152節〜3節)。すべてにおいて、神のことばに聞き従うことこそが、信仰の生き方の原点であることをすでに体験していたはずのアブラハムでしたが、なんとまさに重大なことを全く神に頼らないで決めてしまったのです。これこそ、アブラハムの神に対するうぬぼれにほかなりません。つまり、神に頼らないで自分自身に頼ってしまったのです。

  けれども、アブラハムは幸いにして神のおことばに改めて全面的に従ったので、神から見て正しい者とされました。そこで、神は宣言なさいました。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。・・・天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。・・・あなたの子孫はこのようになる」と(同上4節〜5節)。そこで、アブラハムは、自分の計画を潔く(いさぎよ)撤回(てっかい)し、神のおことばに全面的に従ったので、まさに正しい者と認められたのです。 

罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください

ところで、今日(きょう)の福音に登場する徴税人も、神殿で遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈っただけで、義とされたのです。この徴税人は、神殿(しんでん)(ほん)殿(でん)に近づくこともはばかって遠くにたたずんだまま、自分の犯し罪を悔み(くや)、「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみ(おんいつく)をもって。深い御憐れみ(おんあわ)をもって、背き(そむ)の罪をぬぐってください」という詩編51編の冒頭を思い起こさせる言葉で祈りましたが、「わたし」ではなく、はっきりと「罪人のわたしを」と自覚しています。

  一方(いっぽう)、ファリサイ派の人は、自分が神の前に正しい者となるために、十戒(じゅっかい)

を忠実に守り、努力を重ねて来たのでしょうが、彼が捧げた感謝は、自分がいかに正しく生活しているかを主張することに偏って(かたよ)います。つまり、彼は、自分自身に対する信頼をあからさまに表す、「自分自身を高くする」生き方をしていたのです。したがって、神の前では義とされません。このファリサイ派の人は、「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げた(ささ)」のは、まさに自分の弱さを自分の努力によって克服しようとしたのです。

  ところが、徴税人のほうは、自分の弱さを神の憐れみを乞う突破(とっぱ)(こう)にしたのです。自分がいかに無力であるかをいつも自覚しているので、自分に頼らず、憐れみの神に全面的に信頼しているのです。この神の憐れみにより頼む生き方こそ、信仰者の生き方であることは、すでに旧約時代から語られて来ました。ですから、詩編に次のような祈りがあります。

  「ご覧ください、(しもべ)が主人の手に目を注ぎ はしためが女主人に目を注ぐように わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 憐れみを待ちます。

  わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください(詩編1232節〜3節)。 

福音があまねく()べ伝えられる

ところで、今日(きょう)「世界宣教の日」です。全世界のカトリック教会が、世界の各地における宣教活動のために特別に祈り、献金をし、犠牲をささげ日です。ちなみに、本日の献金は、各教区・諸団体から、それぞれの国の教皇庁事業事務局に集められ、毎年、春にローマで行われる総会で援助先が審議され、ローマ本部の指示にしたがい、世界各地の宣教活動のために分配されます。

  そこで、今日の第二朗読ですか、パウロが殉教による死を目前にして弟子のテモテに書き送った手紙から採られた箇所です。パウロの生涯は、特に異邦人に福音を()べ伝えるためにささげられたことを書き遺して(かきのこ)います。

  「わたしを通して福音があまねく()べ伝えられ、すべの民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました」と。

  ですから、実は、今日の箇所の前の1節から5節までは、テモテに対しての最後の勧告を切なる思いを込めて次のように書いています。

  「神の御前(みまえ)で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前(みまえ)で、その出現とその御国(みくに)を思いつつ、厳か(おごそ)に命じます。みことばを()べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時がきます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け(そむ)作り話(つくりばなし)のほうにそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み(つつし)、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」と。

  実は、パウロはすでに福音を()べ伝えることが、自分の働きの原動力になっていることを、はっきりと次のように自覚していました。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇り(ほこ)にはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を知らせないなら、わたしは不幸なのです。・・・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。・・・福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」と(コリントの信徒への手紙一、916節〜23節)。 

福音宣教はまず家庭から

最後に、今日(きょう)の「世界宣教の日」にちなんで、わたしたちの使命である福音宣教は、先ず身近な所から始める必要があることを確認したいと思います。

  教皇ヨハネ・パウロ二世は、その使徒的勧告『家庭』で次のように勧めておられます。「キリスト者の家庭は、福音を受入れ信仰を深めるにつれて、福音を告げる共同体となります。・・・家庭は、教会のように、福音が伝えられる場であり、さらにそこから福音が広まって行く場でもなければなりません。この使命を知っている家庭では、家族全員が同時に、福音を受入れながら一方では福音宣教をしているのです。親は子どもに福音を伝えるだけではなく、子どもから生活に深くかかわった福音を受け取ることができます。このような家庭は、近くの家庭にとって福音宣教者となります」(52項)。

  共に働いてくださる主に全面的に信頼し、福音宣教の使命を忠実に果たすことができるよう共に祈りたいと思います。

アブラハムと妻サライ

年間第29主日・C年(10.10.17

「果たして地上に信仰を見出すだろうか」

サンタ・マリアのご像はどこ! 

  国宝に指定されている長崎の大浦(おおうら)天主堂(てんしゅどう)は、パリ外国宣教会の宣教師フューレ神父によって1863年に着工され、同年長崎に上陸した同じ会の宣教師プチジャン神父によって完成しました。そして、献堂式が行われたのは、翌年の319日、当時の日本教区長のジラール神父が司式し、「日本二十六聖人教会」と命名されました。そこで地元長崎の人たちは、「フランス寺」と呼ぶようになりました。

  とにかく、物珍しさ(ものめずら)に連日この建物を見に人が集まって来たのですが、まだキリシタン禁制が敷かれていたので、役人たちは監視の目を光らしていました。

  ところで、長崎に隣接する(うら)上村(かみ)で二百五十年間一人の司祭もいなかった時代に、七世代にわたってカトリック信仰を守り通して来たキリシタン農民たちがおりました。ですから、彼らの間で「フランス寺にサンタ・マリアさまがおいでなさる」という(うわさ)村中(むらじゅう)に広がって行き、キリシタンの心にどよめきが起こりました。「サンタ・マリアさまがいらっしゃるなら、そこの異人(いじん)さんは、パーデレ(ポルトガル語の神父)さまに相違ない。」そこで、イザベリナゆりという女性のキリシタンが、「フランス寺に行って、パーデレさまに会いたい」と言い出し、とうとう十二人から十五人ほどのグループになり、1865317日金曜日の昼下がり、一行はフランス寺の玄関に辿り(たど)つきました。あいにく聖堂の(とびら)は閉まっていたのですが、庭にいたプチジャン神父は彼らを見つけ、開けてくれました。ところが彼らが、聖堂に入ると一般の見物人をよそおい、別々に分れてしまいました。そこで、プチジャン神父は、祭壇の前に跪き祈って(ひざまず)いました。そこに、三人の婦人が近づき、その一人が神父の耳元に囁きました(ささや)。「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」「わたしたちは浦上(うらかみ)のものでござりまする。浦上(うらかみ)のものは皆同じ心でござりまする。」さらに、「サンタ・マリアのご像はどこ」と尋ねたのです。神父は聖母子像の前に彼女たちを案内したので、他のキリシタンも皆集まってきました。「ほんとにサンタ・マリアさまだよ。御子(おんこ)ゼズスさまを抱いていらっしゃる。」「わたしたちは今カナシミ(せつ)を守っています。あなたも守りますか。」悲しみ節(かなしみせつ)とは四旬節のことで、厳しい迫害が続く中、一人の神父もいなかった二百五十年間、「隠れキリシタン」は、四旬節の断食と祈りを忠実に守って来たのです。 

迫害に耐え抜いた信徒の共同体

  この感動的な出来事は、“キリシタンの復活”または、“信徒発見”と言われ、世界宗教史の奇跡とされていますが、それは、司祭が全くいなくなった迫害の二百五十年間、七世代にわたって途切れる(とぎ)ことなく(まこと)の信仰を守り抜いたという日本の教会の歴史にほかなりません。

  したがって、最近なされたキリシタンの歴史的研究によって、この奇跡的出来事が詳しく説明されています。

  まず、十六、七世紀の日本におけるキリシタンが、「民衆」のものであり、「信徒」の集団であったいう事実です。当時、スペインやポルトガルから来日した宣教師の人数は、急激に拡大(かくだい)する日本のキリシタン共同体を司牧するにはあまりにも限られており、常に人手不足に悩む状況でした。たとえば、1554年の段階で、信徒数はすでに2000人を超え、豊後(ぶんご)平戸(ひらど)などの地域に分散していました。けれども、彼らを司牧する宣教師はわずか10名でした。したがって、司祭がいなくても信徒たちが自分たちの中から指導者を選び自立した共同体を育てる必要があったのです。

  ですから、特に1610年代以降、司祭が常駐しないキリスト教共同体が幕府の徹底的な迫害をさけ、生き残る制度を確立したのです。今日の福音で、イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければない」と教えておられますが、キリシタン時代にこそ、祈りを生活の中にしっかりと根付かせたのではないでしょうか。たとえば、すでに1560年代に、キリシタンが家庭集会で祈るとき、家庭祭壇の上に祝別した「コンタツ」(ロザリオ)を飾り、そこに集まった信徒たちが共同体として聖母マリアへの取り次ぎを願っていたのです。つまり、迫害に耐え抜くことが出来た共同体の土台は、祈りにほかなりません。

  また、1629年、「踏み絵」によってキリスト教徒の検挙(けんきょ)を先ず長崎で実施したのですが、加えて、1646年には、「五人組」制度が敷かれ、民衆相互の間でのキリシタン摘発(てきはつ)のネットワークが全国に張り巡らされました(はりめぐ)このような厳しい状況の中でこそ、キリシタンたちは、抵抗の地下組織であるキリシタン共同体を堅固なものに育て上げたのです。パウロも、その手紙のなかで、信仰共同体における相互の助け合いと一致がいかに大切か、次のように強調しています。

  「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のような変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、(かしら)であるキリストに向って成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々(ふしぶし)が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は(ぶん)に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」と(エフェソの信徒への手紙414節〜16節)。 

忍耐強く、十分に教える

  また、パウロは、今日の第二朗読で、共同体が成長するために共にみことばを忠実に学び、伝え続けることの大切さを主張しています。

  「自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだのかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。・・・みことばを()べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。どがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」と。また、キリシタン迫害時代に司祭不在でも自立できる共同体に成長できたのは、信徒リーダーの活躍がその鍵を握っていたといえましょう。この信徒の指導者の任務は、洗礼志願者に洗礼を授けること、また、死者を埋葬すること、弱い者を励まし、村落内でキリスト教の教理を教えることでした。このような信徒指導者は、まず、宣教師や修道士たちから指導を受けた後、各民家の家庭祭壇をまもり、信徒を導くという大切な役割を担っていたのです。

  一方では、司祭が頻繁に巡回できる自由を束縛されたキリスト教徒の集団は、次第に衰え、個々人のレベルでは、信仰を失う危険に直面することもありました。そんな中、司祭不在でも自立できるまでに育てられた信仰共同体は、迫害に対して動じない強さを備えていたのです。

  わたしたちも、迫害にも耐え抜くことができる共同体をしっかり育てることができるように、共に祈りたいと思います。

大浦天主堂

年間第28主日・C年(10.10.10

「主は生きておられる」

異邦人の軍司令官ナアマンのいやし

今日の第一朗読は、異邦人の国シリアの軍司令官ナアマンが、預言者のことばすなわち神のことばに従ったので、自分の持病であった重い皮膚病がたちどころに癒されたという感動的なエピソードを、伝えています。実は、この登場人物ですが、王の軍司令官という地位と名誉もありながら、不幸にも重い皮膚病のため苦しい日々を送っていました。ところが、「神の人」この呼び名は、「神の力と権威を持つ人物」という意味ですが、旧約時代の偉大な預言者エリアの弟子のエリシャに最も多く使われます。この神の人エリシャの言葉によって、その病気が奇跡的にすっかり癒されたのです。

  この出来事のいきさつをもう少し詳しく説明します。この異邦人のナアマンは、イスラエルの地から捕虜として連れて来られた一人の少女の勧めに従って、神の人エリシャに自分の苦しい持病を是非とも治してもらいたいと思ったのです。ですから、早速エリシャの家を訪ねますが、肝心のエリシャは直接会ってくれません。その代わりに使いの者に次のような伝言(でんごん)を託します。「ヨルダン川に行って七度(ななたび)身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」と。ところが、ナアマンは怒って身を翻し(ひるがえ)憤慨(ふんがい)しながらそこを立ち去ってしまいます。エリシャ自らが出て来て自分の病気を直接いやしてくれると思っていたからです。けれども、ナアマンの家来たちは、彼をいさめます。「わが父よ、あの預言者が大変なことを命じたとしても、あなたはそのとおりなさったに違いありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」と。そして、今日の第一朗読箇所が続きます。

  つまり、この神の人のことばを信じて言われたとおりにしたところ、ナアマンの重い持病はたちどころに癒されたのです。まさに、預言者エリシャが仲介する「神のことば」の力に触れたのです。このみことばの力は、どんな病気をも直ち(ただ)に癒す力にほかなりません。確かに、この軍司令官は、最初は神の人自ら(みずか)出て来て、自分の前に立ち、まず神に祈ってから直接自分の皮膚に触れて治して(なお)くれるものと思っていたので、肝心のエリシャに会えなかったことに(ふん)(がい)したのでしたが、いさめる部下の勧めどおり、神の人エリシャのことばを、神のことばと信じたので奇跡が起こったのです。そこで、この素晴らし奇跡を体験したナアマンは、早速神の人に感謝のしるしとして贈り物を差し出します。けれども、エリシャは、辞退しました。「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と。この言葉こそ、(まこと)の神への信仰告白にほかなりません。つまり、この預言者の信仰告白が、すでに異邦人のナアマンに伝わっていたので、ナアマンが奇跡を体験することができたのではないでしょうか。なぜなら、神が現に生きておられ、また働いておられるからこそ、かみのことばを信じる信仰が、奇跡を起こす原動力になるからです。ですから、この(まこと)の信仰によってわたしたちも救いを、必ず体験できるのであります。このことを、実は、今日の福音が、見事に語っております。 

清くされて、いやされた

イエスはエルサレムへの旅路で、サマリアとガリラヤの間を通られたとき、重い皮膚病を患って(わずら)いる十人の人たちに出迎えられます。勿論、彼らは律法の掟に従って近くには来ることができないので、遠くの(ほう)立ったまま、大声(おおごえ)叫びます。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と。

  ところで、今日の福音の舞台となっているのは、「サマリアとガリラヤの間の」村です。このような場所が選ばれたのは、サマリアが当時「異邦人世界」の象徴ともなっていたからです。なぜなら、サマリア地方は人種的にも文化的にも混血が始まっていたからです。ですから、サマリア人は、純粋な血統を重んじるユダヤ人から見れば、ユダヤ人とはとうてい呼べない異国の民に等しい(ひと)存在でした。けれども、福音記者ルカによれば、エルサレムに向かって歩むイエスは、ユダヤ人の救いのためだけではなく、異邦人の救いのためにも十字架に上られるのです。

  ところで、この「重い皮膚病」というのはおおざっぱな言い方で、恐らくかつてはライ病と言われていたハンセン病も含まれていると考えられます。ですから、当時のユダヤ教社会でも、この病気に罹って(かか)いる人たちは、健康な人に近づくことは、固く(かた)禁じられておりました。したがって、人里離れた所に住まなければなりませんでした。そこで、イエスが村に入ろうとしたとき、「遠くの(ほう)に立ち止まったまま」十人が、イエスをお迎えしたのは、彼らが明らかに村の外に隔離されていたからです。日本でも、この病気に罹って(かか)いる方々を強制的に隔離するだけでなく、基本的人権までも踏みにじった対応を1907年に制定された「らい予防法」によって90年もの長い間取り続けて来たという、大きな汚点を残しております。ちなみに、この法律は、1996年の4月にやっと廃止されました。

   とにかく、イエスは、このように共同体から隔離されてまさに差別されている人々に近づいてくださるのです。ですから、イエスは早速、彼らに優しくお言葉を掛けられました。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と。なぜなら、律法の規定によってこの病気が治ったことを証明するのは、医者ではなく祭司だったからです。実は、レビ記に次のように記されて(しる)います。「彼が祭司のもとに連れて来られると、祭司は宿営の外に出て来て調べる。患者の重い皮膚病が治っているならば、祭司は清めの儀式をするため、その人に命じて、生きている清い鳥二羽と、杉の枝を用意させる」と(レビ記14.2-4)。

   この十人の患者が実際に清くなったのは、なんと祭司の所に行く途中でのことでした。ところが、「その中の一人」が、神を賛美しながらイエスのところに戻って来て、その足もとにひれ伏して感謝します。そのきっかけは、自分が癒されたのを「知った」からです。ここで「知る」と訳された言葉ですが、普通は「見る」を意味します。ですから、自分が癒されたことを「見た」ことが、神とイエスに賛美と感謝をささげるきっかけとなったのです。

   つまり、このサマリア人の患者が見たものとは、実は、清くされた自分の皮膚に触っておられる、まさに神の憐みの指だったのではないでしょうか。彼は、「清くされた」だけではなく、「癒されたこと」をも見たのです。15節で「清くされた」が、「癒された」に変えられているのは、まさに神との深い交わりに招き入れられたことを強調するためです。神の憐みの心は、人の「いのち」に無関心ではいられません。とにかく、このサマリア人は、神との関わりに気付いたので、おのずと自分の体の向きを変え、つまり生き方そのものの姿勢を転換したので、イエスのお言葉をとおして働く神の憐みをまず賛美し、そしてイエスに感謝するために急いで戻って来たのではないでしょうか。ですから、救いとは、「清くされた」だけではなく、「癒された」こと気づくことにほかなりません。そして、信仰とは、清くされた自分の皮膚の向こう側に、神の指を見、自分の生き方を変えることなのです。ですから、イエスは彼に宣言なさいました。「あなたの信仰があなたを救った」と。

   わたしたちも、日々わたしたちの信仰によって救いを体験できるように、共に祈りたいと思います。

病を癒すキリスト

年間第27主日・C年(10.10.3

「まことの信仰を育てる」

今日の福音の文脈 

   今日(きょう)の福音は、ルカ福音書の17章の冒頭(ぼうとう)の部分ですが、イエスが弟子たちに大切な教えを述べられる場面であります。まず、イエスは、躓き(つまづ)について嘆かれます(なげ)。「躓き(つまづ)避けられない()。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人を躓かせる(つまづ)よりも、(くび)ひき臼(うす)懸けられて()、海に投げ込まれてしまう(ほう)がましである」と(1-2節)。

   その次に、お互いが赦し合うことの大切さを、強調なさいます。「あなた方も気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい(いまし)。そして、悔い改めれば、赦してあげなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と(3-4節)。ここで言われている、「一日に七回」の(なな)は、完全な(かず)を表しておりますので、「何度でも、或いは無制限に」という意味になります。

   このイエスのおことばを聞いていた弟子たちは、自分たちの信仰の弱さに気付いたのでしょうか、早速、イエスにお願いします。「わたしどもの信仰を増してください」と。つまり、今、自分たちが持っている信仰が足りないと考えていたのであります。特に、「何度でも」赦すためには、もっと大きな信仰が必要だと思ったのかも知れません。

   そこで、イエスはお答えになられます。「もしあなたがたに、からし種(だね)(ひと)(つぶ)ほどの信仰があれば、(くわ)の木さえも従わせることができる」と。この「からし種のような」というのは、日本では「けしの花の(たね)つぶのような」と言い換えることができますが、とにかく、からし種(だね)中近東(ちゅうきんとう)の植物の中で最も小さな(たね)であるにもかかわらず、育つとなんと約3メートルの高さになるそうです。ですから、イエスがこの(たね)のイメージを使って説明なさったのは、信仰が小さいものから大きいものにしっかりと成長することを認めておられたからと思います。

   しかしながら、この信仰は何よりも「本物、あるいは(まこと)の信仰」でなければなりません。つまり、信仰は、その大きさで測るのではなく、まさにその「(しつ)が問われる」のではないでしょうか。ですから、「(まこと)の信仰」があれば、たとえからし種のように小さくても、まさに信じられないほどの力を発揮するのであります。けれども、いわゆる「奇跡」が、「(まこと)の信仰」のあかしになると言うのではありません。

イエスが、ここで強調なさっておられるのは、むしろ「(まこと)の信仰」がもたらすまさに奇跡的な力であります。

   ちなみに、マタイも「らし種(だね)一粒(いちつぶ)ほどの信仰」の力強さを引きあいに出しておりますが、全く違った文脈(ぶんみゃく)あります。つまり、悪霊を追い出すことのできなかった弟子たちが、その(わけ)問い質した(といただ)ときに、イエスは「からし種(だね)一粒(いとつぶ)ほどの信仰」がもたらす力の偉大さを説明なさったのです。

つまり、マタイ福音書の文脈では、悪霊追放といういわば目立つ(わざ)と信仰を結びつけております。ところが、ルカは、罪を犯した兄弟を無制限に赦すためには、どうしても「(まこと)の信仰」が必要であることを強調しているのであります。なぜなら、信仰こそは、華々しい(はなばな)悪霊追放という業をもたらすだけではなく、罪の赦しというまさに目に見えない偉大な業を引き起こすことができるからであります。つまり、からし種一粒ほどの信仰は、驚くべき力を秘めて()いるからです。 

しなければならないこと 

   ところで今日の福音の後半は、また別なテーマが語られております。つまり、一日の仕事を終えて()帰宅した(しもべ)が、当然のことながらさらに主人の食事の準備をし、そして給仕をしても、主人からは何の感謝も期待できないというのです。なぜなら、それらすべては、(しもべ)として果たすべき務め(つと)にほかならないからです。このことを、わたしたちに当てはめた場合は、どうでしょうか。わたしたちキリスト者が、たとえ善業を行ったからといって、神から決して見返りを求めるべきではないのです。実は、ここの10節で言われている「しなければならない」という言い回しを、直訳しますと「行うことを担って(にな)いる」となります。そして、この「担って(にな)いる」という言葉は、パウロが書いたローマの信徒への手紙でも、次のように使われております。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借り(かり)があってはなりません」と(13.8)。そこでは、隣人愛は、神から受けた愛への応答に過ぎないと見ているのであります。つまり、わたしたちが隣人を懸命に愛することによって、神の愛に精いっぱい(せい)応えよう(こた)としても、神からいただいた愛に相当するほどには、決してなりえないからです。ですから、わたしたちの隣人愛においては、どうしても借りが残ってしまうのであります。

   では、このことを、そのまま今日(きょう)の福音の10節の言葉に当てはめて見ましょう。要するに、わたしたちキリスト者が、奉仕や善業を「しなければならない」のは、イエスを通して示された父なる神の無限の愛への応答に過ぎないということになります。

   とにかく、パウロの手紙では、「隣人愛」が、神のわたしたちに対する愛に応えることなので、いつも借りが残るとされていますが、今日の福音の文脈では、兄弟を無制限に赦すことが、わたしたちが当然実行「しなけれなならない」ことになります。つまり、罪を犯す兄弟を戒め、彼が悔い改めるなら、何度でも赦すのは、わたしたちの忍耐がもらす結果では決してありません。むしろ、それは、僕が主人に忠実に給仕するように、わたしたちキリスト者の本来なすべき務め(つと)にほかなりません。なぜなら、わたしたちキリスト者は、すでに神からの赦しを豊かに受けているからであります。ですから、兄弟を赦すことは、わたしたちが、神によってすでに赦されていことの証しに過ぎないのです。だからこそ、イエスは「何度でも」兄弟を赦すようにと、命じられたのではないでしょうか。

   とにかく、わたしたちに真の信仰があれば、この神の無制限の愛に気付き、大きな力を獲得(かくとく)することができます。ですから、この力を使ってわたしたちは、神の赦しを人々に伝えることができるのであります。

   ですから、復活のイエスが、弟子たちに次のように命じられました。

「『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、かれらの(いき)を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』と」(ヨハネ福音書2021節〜23節)。

今日のこのミサが終わるとき、わたしたちはそれぞれの場に派遣されます。それは、なによりも神の赦しの素晴らしさを、出会う人々に伝えるためであります。このわたしたちの大切な使命を、みんなで力を合わせて忠実に果たすことができるように共に祈りたいと思います。

からし種

年間第26主日・C年(10.9.26

「信仰の戦いを立派に戦い抜く」

無関心からの解放

カトリック教会のまさに歴史的大改革であった第二ヴァチカン公会議は、1962年の10月から1965年の12月まで、ローマの聖ペトロ大聖堂で丸四年の歳月(さいげつ)をかけて全世界の教会から招集された2,860人の公会議教父(司教)たちと484人の公会議顧問神学者、さらに130人の諸教会からのオブザーバーと招待者が参加した画期的なイベントでした。そこで、特に1962年の第一会期の終わりに近づいたとき、事前に全く準備されていなかった議案が新たに浮かび上がって来たのが、最終的に『現代世界憲章』となった、大切な課題でした。それは、教会が現代世界と積極的に対話し、関わって行くための基本的な奉仕の枠組みを明確にした議案でした。それまでの教会は、特に近代そして現代になってからは、世界をむしろ警戒し、自らを閉ざして来たといえます。

  ですから、この新しい議案によって、教会は世界に対して奉仕して行く大切な使命があることを確認することができたのです。そこで、1965年の第四会期に決定された公文書の冒頭は、次のような宣言になっています。

  「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々と苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。(まこと)に人間的事柄で、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起さないものは一つもない。・・・彼らは、キリストにおいて集まり、父の国への旅において聖霊に導かれ、すべての人に伝えなければならない救いのメッセージを受けている」と。

  ところで、今日の第一朗読で、紀元前8世紀に北イスラエル王国で活躍した預言者アモスが、当時の上流階級の人たちが、貧しい人たちを搾取(さくしゅ)するだけで、彼らの苦しみに対して全く無関心であったことを、次のように厳しく批判しています。

  「お前たちは象牙(ぞうげ)寝台(しんだい)に横たわり 長い椅子に寝そべり 羊の群れから小羊を取り 牛舎から子牛を取って(うたげ)を開き 竪琴(たてごと)()に合わせて歌に興じ(きょう) ダビデのように楽器を考え出す。・・・しかし、ヨセフの破滅(はめつ)に心をいためることがない。それゆえ、今や彼らは捕囚の先頭を行き 寝そべって酒宴(しゅえん)を楽しむことはなくなる」と。

  つい先ほども、二週間前の夜尋ねてきたホームレスのおじさんから、また、援助を願われましたが、今回はそれを丁重にお断りしました。それでよかったのでしょうか。

  ところで、1982年の二度目の来日の際、各地で講演なさったマザーテレサは、わたしたち日本人に対して次のようなアピールをなさいました。

  「引きこもりと呼ばれている人たちがいますが、こういう人々は孤独な暮らしをしていて、だれにも必要とされず、ただ恐れおののいて、一人きりでいます。それが、日本でも、アメリカでも、インドでも、恐らく、どの国や場所でも、いわば今日(こんにち)のホームレスなのです。人間がいるところには、どこにでも、愛に飢えている人々がいるのです。・・・日本にも皆さんの愛を必要としている貧しい人々がいます。皆さんのほほえみたけでも、いいかもしれません。目の不自由な(かた)がいて、そういう(かた)たちに、新聞を読んであげることもできるでしょう。病気になってしまったお母さんの代わりに、食糧品を買いに行って上げたりもできます。ほんの少しのことだけでもいいのです。でも、そういうことから愛がはじまるのです」(アグネス・チャン『しあわせを見つけるマザー・テレサの26の愛の言葉』1456頁)。

信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手にいれなさい

また、パウロは今日の第二朗読で、永遠のいのちを得るために信仰の戦いが必要であると強調しています。それは、まさに愛の実践のために自分の利己主義と、特に苦しんでいる貧しい方々に対する無関心を克服しなければならないということではないでしょうか。ですから、イエスは、具体的に勧めておられます。

  「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れる()ことのない財布(さいふ)を作り、尽きることのない富みを天に積みなさい。そこは、盗人(ぬすびと)も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富にあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と(ルカ福音書1233節〜34節)。

  そこで、今日の福音ですが、貧しい人たちに対して全く無関心であったエリート集団のファリサイ派に向けてイエスが、語られたたとえであります。

  ルカ福音書の文脈では、16章全体のテーマが、富についてであり、この福音書の二つに基本的確信、つまり「貧しい人々は、幸いである」(620節)、そして「富んでいるあなたがたは、不幸である」(624節)という確信の説明になっています。

  このたとえに登場するラザロが横たわっていたのは、金持ちの門前(もんぜん)です。ところが、この金持ちは、この惨めなラザロに全く関心がなく無視しています。そこで、死後、この二人の境遇(きょうぐう)は、まさに逆転します。金持ちは、恐らく盛大な葬式によって葬られた(ほうむ)のでしょうが、ラザロは墓に葬られる(ほうむ)こともなく、直接、「天使たちによって連れて行かれ」ました。そこで、ラザロが運ばれたところは、原文では「アブラハムの(むね)」となっています。それは、(むね)に抱かれる子どもの平安を表すと同時に、天の祝宴での最高の席をも表しています。

  一方、生前に「いつも紫の(ころも)や柔らかい麻布(あさぬの)を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」金持ちは、陰府(よみ)の炎の中でもだえ苦しんでいます。

  生前、苦しんでいたラザロは、今、「慰められて」います。ちなみにラザロという名前は、「神が助ける」という意味です。けれども、神がラザロを助けたのは、彼の善い行いによるのではありません。むしろ、それは、「貧しい人々は幸いである」というイエスが語られた神の国の秩序の実現にほかなりません。

  そこで、この金持ちは、炎の中で「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と、アブラハムに憐れみを乞いますが、金持ちとラザロの間には、「大きな(ふち)(裂け目)」があるのでそうすることができません。生前、この憐れなラザロに対して無関心という大きな裂け目を造っていたこの金持ちは、死後、二人の境遇が逆転してしまいますが、この裂け目を埋める手立て(てだ)はありません。そこで、せめて、この世に残っている兄弟たちに警告して欲しいと願う金持ちに対して、アブラハムはそれを断ります。なぜなら、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」からです。

  この世に生きるわたしたちには、天の国を垣間見ることが、赦されていませんが、神のことばを「聞く」ことはできます。まさに、神のことばを「聞く」ことこそが、救いと滅びに分ける原点にほかなりません。ですから、神のことばを「聞く」ことによって、この世における一回限りの人生の生き方を変えて行くことができるのです。イエスは、宣言なさいました。

  「わたしのことばを聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠のいのちを得、また、裁かれることなく、死からいのちへと移っている」と(ヨハネ福音書524節)。

金持ちとラザロ

 

年間第25主日・C年(10.9.19

「神と富とに仕えることはできない」

安息日の意義は何か 

週の初めの今日(きょう)また、わたしたちが此処に父なる神によって呼び集められたのは、まさにわたしたちの信仰の原点に立ち帰るためにほかなりません。つまり、神の救いのみ業の頂点である主の復活を記念し、自分自身を主と共に父なる御父にささげるためにこのミサを共同体としてささげているのです。

実は、旧約時代には、週の終りの日、つまり安息日を特別に聖なる祝福された日とするために、普段の仕事を休んで会堂に集まり、聖書を(ひも)解き神(と)の救いのみ業を思い起こし、(まこと)の礼拝をささげていました。その伝統は、イエスの時代に至るまで忠実に守られて来ました。ですから、イエスが、ご自分の故郷ナザレに戻られたときも、安息日の会堂での礼拝に参加なさいました。その様子をルカは、次のように報告しています。

「イエスは、お育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった()。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた。・・・・』イエスが巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた(すわ)。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこで、イエスは、『この聖書のことばは、今日(きょう)、あなたがたが耳にしたとき実現した』と話し始められた」と(ルカ福音書416節〜21節)。

ところで、紀元前8世紀に北イスラエル王国で活躍した預言者アモスは、今日の第一朗読で、金儲け(かねもう)に夢中になっている商人たちを批判しながら当時の王や、金持ちたちに次のような厳しい言葉を投げ掛けています。

「貧しい者を踏みつけ 苦しむ農民を抑えつける者たちよ。お前たちは言う。『安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。・・・弱い者を金で、貧しい者を靴一足の(あたい)で買い取ろう』・・・」

とにかく、一日も休まずに仕事をすれば、儲け(もう)はいっそう増やせると思い、働いてはいけない安息日は、彼らにとっては早く終わればいい迷惑な日だったのです。

では、そもそも安息日が何のために定められたのか、旧約聖書には、二つの説明がありあます。まず、シナイ山でモーセを通して与えられた十の掟の中で、次のように命じられています。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日(むいか)の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目(なのかめ)は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。・・・」と(出エジプト記20章8節〜10節)。

聖別された特別な日であるから、仕事は休まなければならないのです。

  また、申命記では、次のような説明になっています。

  「あなたがたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手(みて)()(うで)伸ばして()あなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」と(申命記515節)。神の偉大な救いのみ(わざ)を思い起こす日なのです。

  このように、安息日は、信仰の原点に立ち帰るために守るべき聖なる日なのです。ですから、わたしたちのとっては、日曜日が安息日の代わりに「主の日」つまり主の復活を記念する日としてミサに参加する大切な日になりました。

  また、ミサにおいて、すべての人々のために祈りをささげることの大切さを、パウロは今日の第二朗読の冒頭で次のように勧めています。

  「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と。

  したがって、ミサの中の「共同祈願」において、四つの意向を次のような順序で祈ることができます。第一は、「教会の必要のため」、第二は、「国政に携わる(たずさ)人々と全世界の救いのため」、第三は、「困難に悩む人々のため」、第四は「現地の共同体のため」です。 

神と富とに仕えることはできない 

次に、今日の福音の最後のおことばで、イエスは信仰の生き方の基本的姿勢を明確に強調なさっておられます。つまり、わたしたちは「神と富とに仕えることはできない」のであります。ですから、「主日のミサ」に、一週間ごとに定期的に忠実に参加するのは、まさに信仰の原点に立ち返って、神に仕えることを確認することにほかなりません。したがって、一週間の生活も、仕事や日常生活の煩わしさ(わずら)に流されてしまい、神以外のものに仕えてしまうことにならないように、日々の祈りによって神に仕える姿勢を保つ必要があります。

ですから、モーセの次のような具体的な勧めを強調したのです。

  「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くして、魂をつくし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも、起きているときも、これを語り聞かせなさい」と(申命記64節〜7節)。ですから、わたしたちは、日々の生活においてもまず神に仕える、つまり神の掟を守ることを、常に最優先的に選ぶことなのです。

  イエスが忠告なさった「神と富とに仕えることは出来ない」ということは、特に主日のミサで確認し、毎日の生活の中で神を中心にすることにほかなりません。ですから、パウロは、わたしたちキリスト者が日々、具体的にどのような生き方をすればよいのかを、次のように勧めてくれます。

  「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい(ささ)。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたは世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と(ローマの信徒への手紙、121節〜2節)。

  とにかく、現代人の生活は、あまりにもゆとりがありません。大人だけが忙しいのではなく、子どもたちまでもが、せっかくの「主の日」に休むことができず、部活などに殆どの時間を取られています。結局、大人も子どもも神と富とに兼ね仕えようとしているのではないでしょうか。ですから、結果的に神以外のものに仕えることを優先的に選んでしまうことになりかねません。つまり、まさに世間的な価値観にとらわれてしまうのです。

ですから、ヨハネは、厳しく忠告しています。

  「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父(おんちち)から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」と(ヨハネの手紙一、215節〜17節)。

主日のミサ(イメージ)

年間第24主日・C年(10.9.12

「全能のゆえに、回心させようと、罪を見過ごす」 

くだすと告げられた災いを思い直された

聖書は、旧約聖書から新約聖書に至るまで、神の限りないあわれみと赦しを一貫(いっかん)して強調しています。今日の第一朗読も、主なる神が、偶像崇拝に陥って(おちい)しまった民に一旦くだすと決めた災いを、モーセの執り成しによって思い直されたという感動的な場面を伝えています。

  実は、イスラエルの民が、自分たちをエジプトの奴隷の家から救い出された(まこと)の神から離れ、偶像に頼ってしまうという罪は、その後も繰り返してしまいます。

  それは、今日の箇所から明らかなように、信仰の道からそれてしまい偶像を拝んでしまうという罪であり、自分たちを救ったお方がだれであるかを全く忘れてしまったからにほかなりません。すでに、シナイ山で神から第一の掟として、次のようなおことばをいただいていたはずなのです。

  「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と(出エジプト記202節〜3節)。

  それにも関わらず、なぜ、イスラエルの民は、神が命じた道からそれて、

若い()(うし)にいけにえをささげ、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」と叫んでしまったのでしょうか。

  実は、そのとき彼らの取った態度は、今日の箇所の直前で次のように詳しく説明されています。

  「モーセがなかなか下りて()来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、『さあ、我々に先だって進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分らなくなったからです』というと、アロンは彼らに言った。『あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳環(みみわ)をはずして、わたしのところに持って来なさい。』・・・彼はそれを受け取ると、のみで(かた)を作り、若い雄牛の鋳像(ちゅうぞう)を造った」と(同上321節〜4節)。

  つまり、(まこと)の指導者を見失ってしまった民は、間違った指導者を偶像に求めてしまったのです。ですから、神は、モーセに命令なさったのです。「直ちに下山(げざん)せよ」と。そして、モーセは、神がご自分の民の罪のゆえにイスラエルを滅ぼそうとなさっておられるのを知って、神に懇願します。

  「主よ、どうしてご自分の民に向って怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力(みちから)と強い御手(みて)をもってエジプトの国から導き出された民ではありありませんか。・・・『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる()と言われたではありませんか」と。

  このように、まさに、神の憐れみと赦しを願うことができるのも、(まこと)の指導者の役割にほかなりません。 

主の恵みがあふれるほど与えられる

ところで先日、特別養護老人ホームを訪問し、病者のための聖体拝領の場面で改めて、主がご自分を、特に体の不自由な方々に与え尽くしてくださる姿を、小さなホスチアの中に目の当たりにすることができました。イエスが、いとも小さなパンとなられたので、その方が、せめてホスチアの半分でしたけれども、ゼリー状の御茶で口を潤しながら(うるお)やっとの思いで頂くことができたのです。イエスは、自らをパンの姿を変えて、病気で苦しんいる方々、体の不自由な方々に御自分を与えて続けてくださるのです。このイエスの深い愛に感謝しなければなりません。

  ですから、パウロは、今日(きょう)第二朗読で、イエスの愛を次のように強調しています。

  「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と。

しかも、このイエスを通して示される神の愛は、わたしたちを(まこと)の回心に導く力となるのです。このことは、すでに『旧約聖書続編』にある『知恵の書』で、次のように語られています。「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようと、人々の罪を見過ごされる(みす)。あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが 果たしてあるだろうか。いのちを愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」と(1123節〜26節)。 

回心する一人の罪人については、大きな喜びが天にある

次に、今日の福音ですが、受難と十字架が待っているエルサレムを目指して旅を続けておられるイエスの(あと)ついて来た群衆の中で特にイエスに近寄って来たのは、徴税人(ちょうぜいにん)や罪人であったと報告しています。神の憐れみを描く福音記者ルカは、今日の場面でも、イエスが三つのたとえによって憐れみ深い神の姿を説明されたことを述べています。

  まず、「失われた羊」のたとえによって、神から離れていた罪人を見出したときの神の喜びが、どれほど大きいかを描きます。「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで(かつ)、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。・・・このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と。

  さらに、二つ目の「無くした銀貨」のたとえによって、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」ことを強調しておられます。

  そして、今日の福音朗読で省略した三つ目のたとえが、「放蕩息子」のたとえです。父親の愛から離れて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、とうとう食べるにも困りはてた次男(じなん)が、「我に返って」(17節)改めて父親の愛に気づき、父親のもとに帰って来たとき、息子を既に赦している父親に迎えられたという感動的な物語です。わたしたちが回心して神のもとに立ち帰ることができるのは、すでに罪が赦されているからです。つまり、わたしたちが回心したから赦されるのではなく、むしろ、神の深い憐れみによって罪が赦されたから、神に立ち帰ることができるのです。このことを、第二イザヤは、次のように語っています。「思い起こせ。ヤコブよ イスラエルよ、あなたはわたしの(しもべ)。わたしはあなたを形づくり、わたしの(しもべ)とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ。わたしはあなたを贖った(あがな)」と(イザヤ書4421節〜22節)。神の限りない愛と憐れみを信じ、神に立ち帰らせていただくことができるよう共に祈りたいと思います。

ウィリアム・J.ウェッブ 「迷える羊」

 

年間第23主日・C年(10.9.5

「イエスの弟子になる条件」

知恵によって救われる 

  今日(きょう)の第一朗読は、『旧約聖書続編』にある『知恵の書』からとられています。この書物は、紀元前一世紀にエジプトのアレキサンドリアで書かれた「護教的な知恵文学」で、ソロモン王によって語られたという構成になっています。ですから、その9章で、ソロモンが王としての使命を果たすために必要な知恵を祈り求めています。今日の箇所の前の10節から11節では、次のような祈りになっています。

  「どうぞ、聖なる天から知恵を遣わし、あなたの栄光の座から知恵を送ってください。知恵がわたしと共にいて働き、あなたの望まれることが何かを わたしに悟らせるために。知恵はすべてを知り、悟っています。英知をもってわたしの仕事を導き、その栄光でわたしを守ってくれるでしょう」と。

  わたしたちが、信仰の道を正しく歩んでいくために、神から送られる知恵によって導かれなければなりません。なぜなら、「死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたしの思いは不確か」だからです。

  わたしたちは、ついつい自分の思いや考えの(とりこ)になってしまい、神の御旨(みむね)からそれてしまう傾向があるのではないでしょうか。

  ですから、次のように祈るべきなのです。

  「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが()(むね)を知ることができたでしょう」と。

  この神から与えられる知恵は、聖霊にほかなりません。

  したがって、パウロは、わたしたちが祈るときにも聖霊が助けてくださっていることを、次のように強調しています。

  「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自ら(みずか)が、言葉には表せないうめきをもって執り成して()くださるからです。人の心を見抜く(かた)は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心にしたがって、聖なる者たちのために執り成して()くださるからです」と(ローマの信徒への手紙826節〜27節)。

  そこで、ソロモンは、知恵を求める祈りを次のように締めくくっているのです。

  「こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、人はあなたの望まれることを学ぶようになり、知恵によって救われたのです」と。 

知恵は兄弟愛の実践へと導く 

  さらに、知恵に導かれたパウロは今日の第二朗読で、フィレモンに(まこと)の兄弟愛の実践を勧めています。

  今日(きょう)の箇所は、パウロが、恐らくエフェソで囚人となって監禁(かんきん)されていたときに、フィレモンに宛てて書いた手紙です。オネシモは、主人のフィレモンのもとから逃亡した奴隷で、パウロと一緒にいる間にキリスト者となりました。実は、フィレモンもパウロによって信仰に入ったのですが、パウロは彼にオネシモを奴隷としてではなく、愛する兄弟として受け入れるように勧めます。

  まず、パウロ自身、このオネシモを信仰における自分の子どもと認めています。ですから、「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します」と、この奴隷をどれほど愛おしく(いと)思っているかを、打ち明けているのです。そして、奴隷制度の社会のただ中で、大胆(だいたん)にも、オネシモを奴隷以上の者、つまり主において愛する兄弟として受け入れるように、フィレモンに次のように願うのです。

  「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください」と。

  まさに、(まこと)の兄弟愛の実践は、不当な社会制度をも変えて行く原動力になるのではないでしょうか。

肉親に対する以上の愛をイエスに示す

次に、今日(きょう)の福音ですが、イエスがエルサレムに向う旅の途中で語られた大変厳しいおことばを伝えています。ルカの福音書では、すでに9章でイエスがご自分の受難の二回目の予告をなさった(あと)、ついにエルサレムに向う決意をなさったと、次のように報告されています。

  「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向う決意を固められた」と(51節)。

  ですから、この旅の途中で語られるおことばは、次第に厳しさが増して来ています。とにかく、この旅には、弟子たちだけでなく、大勢の群衆も同行していたのです。したがって、今日の場面は、イエスがその群衆を振り向いて語ったところです。

  「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と。ところで、ここで言われている「憎む」という言葉ですが、イエスの母語(ぼご)であるヘブライ語やアラム語の独特の表現で、「より少なく愛する」という比較を意味しているのです。ですから、マタイ福音書(1037節)では、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」となっています。つまり、肉親に対する愛以上の愛をイエスは、要求なさっておられるのではないでしょうか。ですから、例えば、親の反対を押し切って洗礼を受ける場合など、まさにイエスをいつも最優先的に選ぶことがイエスの弟子になる条件なのです。したがって、肉親を憎むということではなく、当然愛すべきですが、イエスを愛することはいつも肉親への愛を超えなければならないのです。

  けれども、それができるのは、パウロが断言しているようにイエスを愛することが、何よりもすばらしいことであると実感できるときではないでしょうか。ですから、パウロはイエスに対する信仰を次のように告白しています。

  「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失(そんしつ)と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今までは他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを(ちり)あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」と(フィリピの信徒への手紙、37節〜9節)。

  日々、自分を捨て、自分の十字架を背負って主に従う(マタイ福音書、1624節参照)ことができるよう共に祈りたいと思います。

奴隷オネシモとフィレモン

年間第22主日・C年(10.8.29

へりくだる者は高められる」

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

今日の福音は、ルカ福音書の14章から採られていますが、11節の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というくだりは、マタイ福音書では、全く別な場面で語られています。つまり、マタイ福音書の文脈では、共同体の基本的な在り方を説明する結論として次のように述べられています。

  「あなたがたは、『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師は、キリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と(マタイ福音書238節〜12節)。

  教会共同体は、天の御父によって唯一の師であるキリストを中心に呼び集められた信仰者の集いです。したがって、わたしたちは皆兄弟姉妹として奉仕し合う共同体です。だから、互いにへりくだるのです。

  ところで、パウロは、教会共同体は、「キリストの体」であり、互いにお互いを必要とし、また、お互いの多様性を尊重しなければならいと教えてくれます。しかも共同体が、一致と交わりを深めるために、弱いと思われる方々が必要であると次のように強調しています。

  「そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。・・・目が手に向って『お前は要らない』とは言えず、また、(あたま)が足に向って『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。・・・神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせ、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」と(コリントの信徒への手紙一、1218節〜25節)。

  とにかく、共同体がお互いの交わりを深め一致していくために、まずへりくだり、お互いをありのまま受け入れなければなりません。 

自分を捨て、主に従う

また、信仰共同体が信仰において共に成長するためには、一人ひとりが、キリストにより忠実に従うことが必要です。それは、自分を捨て、自分の十字架を背負うことにほかなりません。特に自分を捨てることは、決して易しいことではありません。たとえば、ペトロがイエスから厳しくとがめられたのは、イエスがご自分の受難と死そして復活の予告をなさったときです。そのときペトロは自分の考えに凝り固まって(こりかた)いたので、イエスを、なんといさめたのです。

  「『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」と(マタイ福音書1622節〜24節)。

  イエスが命じておられる「自分を捨てる」とは、自分の思いや考えを捨てて、神の御心に従うことではないでしょうか。

  この「自分を捨てる」ことは、イエスご自身がもっともすぐれた模範を示されたので、教会は古くから賛美歌によってイエスのへりくだりを褒め称えて(ほめたた)きました。ですから、パウロはこのイエスに倣うよう、彼の手紙に中で、この賛美歌を、次のように紹介しています。

  「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それは、キリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえって自分を無にして、(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ書2章3節〜9節)。

正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる

また、今日の福音の締めくくりで、宴会には「貧し人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と、イエスは命じられます。あぜなら、このような人たちつまりイエスの兄弟である最も小さ者にしたことは、「イエスにしたことになる」からです(マタイ福音書2540節参照)。

この「イエスにしたことになる」という生き方のすばらしい模範を残されたのが、福者マザー・テレサです。実は、今年(ことし)が、マザー・テレサの生誕百年に当たります。マザ―・テレサは、旧ユーゴスラビアで1910年、827日にお生まれになりました。18歳の時にロレッタ修道会員として、インドに派遣されました。そこで、聖マリア高校の教師となり、数年間は校長も務めました(つと)。たまたま、インドのコルカタで大騒動(だいそうどう)が起こり、生徒の家庭にも多くの犠牲者が出たのです。ちょうどそのころ、マザー・テレサは、健康の回復のために空気のきれいなダージリンで静養を兼ねた黙想をするように目上から命じられ、1946910日、そこに向う列車に乗っていたときです。彼女は、ロザリオを手にしながら、暴動(ぼうどう)犠牲になった方々のために真剣に祈っていたのです。祈りが深まるにつれて、何とイエスの叫び声が聞こえたて来たのです。列車の振動も車輪の音も、また、車内の話し声もすべてが遠ざかって行き、イエスの息遣い(いきづか)だけが間近に迫って(せま)くるように感じたとき、突然、目の前に十字架につけられたイエスが現れたのです。そして、マザー・テレサに向って、「わたしは渇く」と叫ばれたのです。十字架の(もと)には、聖母マリア、使徒ヨハネやマグダラのマリアも見えました。この全く神秘的な体験に大変戸惑って(とまど)いるうちに、列車は、目的地ダージリンに到着しました。そこで、彼女は、最寄り(もよ)の聖堂に向って急ぎ、そこで祈り続けました。その後、しばらく時を経た()ある日、とうとう決定的なイエスの声がまた聞こえたのです。「わたしはインド人の愛の宣教者たちが欲しいのだ。最も貧しい人々の中にあって、病気や死に逝く()人々、路上生活を強いられて()いる子どもたちの中にあって、わたしの愛の炎となりうる修道女になってくれるような神の愛の宣教者たちが欲しいのだ。お前に貧しい人々をわたしのもとに連れて来て欲しいのだ」と。あの列車に中での神秘的体験から四年たった1950年、107日、「神の愛の宣教者会」の設立が、コルカタの大司教から認可され、メンバー12名でスタートしたのです。

  19791210日、「ノーベル平和賞」を受賞なさったとき、マザー・テレサは次のように話されました。「わたしがいただいたノーベル平和賞の賞金で、多くの家のない人々のためにホームを作ろうと思います。なぜなら、愛は家庭から始まると信じているからです。最も貧しい人々のために家が作られるなら、もっともっと愛が広がって行くと思います」と。

マザー・テレサ

年間第21主日・C年(10.8.22

「狭い戸口から入るように努めなさい」 

主よ、救われる者は少ないのでしょうか 

  今日(きょう)の福音は、イエスが、十字架が待っているエルサレムを目指して進んでおられた時に語られたことを伝えています。実は、ルカは、すでに9章でイエスが弟子たちと一緒にエルサレムに向う旅について、次のように説明しています。

  「イエスは、天に上げられる()時期が近づくと、エルサレムに向う決意を固められた(かた)」と(51節)。

  ここで言われている「天に上げられる()」とは、イエスの死と同時に昇天を表しています。ですから、これから旅に出てエルサレムで殺され、そして昇天するまでの期間は、神のご計画による実現であることが強調されているのです。

  ちなみに、マルコは、このエルサレムへ向かう旅の様子を次のように伝えています。

  「一行はエルサレムへ上って(のぼ)行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。『今、わたしはエルサレムへ上って(のぼ)行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱(ぶじょく)し、(つば)をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の(のち)に復活する』」と(マルコ福音書1032節〜34節)。

  ところで、今日(きょう)の福音は、エルサレムへ向かって進んでおられたイエスは、その途中の町や村を巡って教えておられたので、聴衆(ちょうしゅう)の一人が「主よ、救われる者は、少ないのですか」と、イエスに問い掛けた場面で始まっています。確かに、救われる者の人数に関しての質問と受け止めることができますが、イエスは全く別の見方からお答えになります。

「狭い戸口から入るように努めなさい(つと)。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と。

この「狭い戸口」とは、人を排除するために狭くなっているということではなく、むしろわたしたちが救われるいわば「権利」について語っておられるのではないでしょうか。ですから、救われる条件は、ただイエスの近くにいることではないのです。たとえば、「ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場で教えを受けたのです」と主張しても、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言われてしまうのです。このようなイエスの厳しいおことばは、マタイ福音書では、偽善者たちに向って語られてという次のような文脈になっています。

「わたしに向って、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名(みな)によって預言し、御名(みな)よって悪霊を追い出し、御名(みな)よって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と、言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法(ふほう)働く者ども、わたしから離れ去れ』と」(マタイ福音書721節〜23節)。

イエスのこの厳しいおことばは、恐らくマタイの共同体で悪影響を及ぼしていた偽預言者(ぎよげんしゃ)たちを警戒するために語られたと考えらます。彼らは、教会内で現に活動していました。それだけに問題は深刻だったのです。彼らはイエスに対して<主よ>と模範的な信仰を表すだけではなく、イエスの名によって預言し、悪魔払いによって病気を治し、その他いろいろな奇跡までも行っていたのです。したがって、教会内でかなりの影響力をもっていたと思われます。

けれども、彼らはイエスによって「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と、罪に定められたのです。なぜなら、

最も重要な掟すなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」とう掟を実践していなかったからではないでしょうか。

  ですから、パウロは愛がどれほど大切であるかを、次のように強調しています。

  「たとえ、預言する賜物(たまもの)を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」と(コリントの信徒への手紙一、132節〜3章)。

狭い(せま)戸口から入るように務める 

  ですから、今日(きょう)の福音でイエスがいみじくも命じられた「狭い戸口から入るように努めなさい」とは、結局、イエスに忠実に従うように務めるということではないでしょうか。なぜなら、イエスが弟子たちにご自分の受難と死、そして復活を初めて予告なさった直後に、次のように命じられたからです。

  「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と(マタイ福音書1624節)。

  ですから、まず、自分の十字架背負い続けることができるために自分を鍛錬(たんれん)しなければならないのです。イエスが、言われる「努めなさい」とは、まさに自分を信仰において鍛えることだからです。

  この鍛錬(たんれん)について、今日の第二朗読が教えてくれます。実は、この手紙は、信仰を捨てる危機に襲われている信徒に、苦しみの意味を説明し、信仰における忍耐を勧めるために書かれたのです。ですから、励ましの手紙と言えます。

  まず、旧約聖書の箴言(311節〜12節参照)を引用します。

  「わが子よ、主の鍛錬(たんれん)を軽んじてはいけない。主から懲らしめられて()も、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え(きた)、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる(むちう)からである」と。

  この「鞭打ち」は、イエスご自身が耐え忍ばれた刑罰でしたから、イエスに従う者が受ける迫害でもあります。さらに鍛錬(たんれん)について次のように説明しています。「およそ鍛錬(たんれん)というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われますが、後になるとそれで鍛え(きた)上げられた()人々に、()という平和に満ちた実を結ばせるのです」と。

  生涯かけて、忠実にイエスに従うことができるよう努めるならば、必ずイエスご自身から、力強い支えと安らぎをいただくことができます。なぜなら、イエスは、次のような愛に満ちたおことばを、日々与えてくださるからです。

  「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎ(やす)得られる。わたしの(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と(マタイ福音書1128節〜30節)。

  このみことばから、あらた慰めと安らぎが与えられ、新たな熱意をもって日々、イエスのおことばに聞き従うことができるよう共に祈りたいと思います。

軛(くびき)

聖母の被昇天(10.8.15

「マリアと共に平和のために働く」

聖母の被昇天の祭日の由来

今日(きょう)、全世界のカトリック教会が共に祝う「聖母の被昇天」は、マリアの祝日や記念日の中で最も重要な祭日です。実は、すでに五世紀ごろには、八月十五日に「神の母マリア」の祝日が祝われていました。その日は、マリアの誕生日としてお祝いしたのです。なぜなら、聖母マリアが天に帰られたことが永遠のいのちへの誕生にほかならないと信じたからです。ですから、七世紀の中頃には、ローマでは、八月十五日を「聖母の帰天の祝日」として祝っていました。やがて、八世紀の末にはローマで初めて、この祭日を「聖母マリアの被昇天」と呼ぶようになったのです。また、19世紀から20世紀かけてマリア信心が高まるなか、「聖母の被昇天」を信ずべき「教義」にするよう多くの嘆願書が提出され、ついに、1950111日に、時の教皇ピオ十二世は、「マリアは、霊魂と体が共に天に上げられたこと」を、教会の信ずべき正式な教えつまり「教義」であると宣言なさいました。ですから、わたしたちは全世界の教会と共に、マリアがキリストと最も深く結ばれたので、すでにその復活の栄光にあずかっておられることを、喜び祝うことができるのです。

日本と聖母マリアとの特別な関係

ところで、今から丁度461年前の815日、聖フランシスコ・ザビエルの一行が鹿児島に上陸したのです。ザビエルは、1549415日、ゴアを出発し一行は531日に海路マラッカに到着し、624日に同地から船出したのです。ザビエルは、マラッカで「日本の島々は信仰をひろめるために極めて整えられた(ととの)ところである」という新しい情報を手に入れ、日本に向ったのです。この聖母の被昇天の祭日が、日本におけるカトリック教会の始まりとなったのは、きっと聖母の特別なご加護が、日本の教会に与えられることが約束されたと受け止めることができるのではないでしょうか。

  とにかく、このザビエルの来日後、わずか七十年あまりのうちに日本のほぼ全土に宣教師の方々が足を踏み入れ、福音を()教会を創立なさいました。そして、十六世紀末には、教会は関東・東北地方に、迫害の嵐の吹きすさぶなか、東北から蝦夷地(えぞち)松前(まつまえ)にまで教会を拡大することが出来たのです。ですから、たとえば、山形県の米沢教会は、1626年以降確かな成長を続けました。司祭が常駐していない巡回教会でしたが、上杉(うえすぎ)藩士のルイス(あま)(かす)()衛門(えもん)と二人の息子ミカエル甘糟()衛門(えもん)そしてビンセンチオ黒金(くろがね)(いち)兵衛(びょうえ)が共同体の世話をしたのです。特に「組」という小共同体を育てお互いの交わりと絆を保っていました。その中には、「聖母の組」や「聖体の組」と呼ばれる共同体などがありました。司祭が常駐していなくても、信徒は定期的に集まり、霊的読書と祈りを土台に、孤児の世話、病人や貧しい人たちの支援活動に携わって(たずさ)いました。当時、米沢教会には、すでに三千人以上の信者がいたと上杉藩の文書に記録されています。そして、やがて始まったキリシタンの迫害時代には、男性三十人と女性二十三人のうち五歳以下の幼児九人が見事な殉教を成し遂げたのです。二年前、このまさに模範的な殉教者の方々は、長崎で(れっ)(ぷく)されました。

  ちなみに、今日(きょう)は、65回目の敗戦記念日に当たりますが、あの悲惨な戦争を終えることが出来た日本は、被昇天の聖母の力強い取りつぎがあったからではないでしょか。ですから、日本のカトリック教会は、聖母と共に世界平和の実現のために働く特別な責任があると言えましょう。この責務を模範的に実行なさった方がおられます。

  長崎教区の高見三(たかみみつ)(あき)大司教様です。大司教様は、今年の四月下旬から二週間余りかけて、浦上の被爆マリア像を携えて、ローマ・スペインを平和巡礼し、続いて核廃絶を訴えるためにニューヨークの国連本部を訪問し、核廃絶を訴える要請文を直接手渡し、被爆国のカトリック教会の使命を見事に果たされました。 

マリアと虐げられている人々の連帯

次に、今日の福音ですが、マリアが親類のエリザベトを訪問なさったときにささげられた賛歌を伝えています。この賛歌は、特に虐げられ(しいた)、抑圧されている人々に勇気と希望を与えているのではないでしょうか。特に、51節からのくだりです。「主はその腕で力を振い、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と。

  ですから、カトリック教会の伝統の中ある「マリア崇敬(すうけい)」も、特に貧しいラテン・アメリカのカトリック信者が証ししているように極めて民衆的であり、特にさまざまの苦難の歴史の中で培われた(つちか)のです。たとえば、スペイン・ポルトガルの植民地政策によって虐げられ(しいた)搾取(さくしゅ)されることから、解放されるときの旗印(はたじるし)になったのが、聖母マリアでした。その典型的実例が、メキシコの教会のグアダルーペの聖母崇敬(すうけい)です。このグアダルーペの聖母は、初めは原住民であるインディオの守護聖人でしたが、(のち)に歴代の教皇から「ラテン・アメリカの守護聖人」と宣言されました。今日(こんにち)では、カナダからアルゼンチンに至るまでの多くの人たちが、マリアを「南北アメリカの母」として崇めて(あが)います。

  とにかく、ラテン・アメリカの誕生を特徴づけるものは、暴力、略奪(りゃくだつ)、死だったのです。この新大陸の植民地政策が、すべての先住民の人間的尊厳を踏みにじり、奴隷にしてしまったのです。そのような、苦難の状況の只中、とうとう神ご自身が、聖母マリアによって直接介入なさったのです。

  メキシコシティの近郊に住むホアン・ディエーゴという貧しいインディオに、なんとマリアは女王の姿でご出現なさったのです。この不思議な出来事によって、何百万ものインディオたちが、自分たちの人間としての尊厳と、そして何よりも生きる勇気を取り戻すことができました。

  そのご出現のとき、マリアの衣は、太陽のように、きらきらと輝き、その足もとの石や岩までが光っていたのです。その神々しい(こうごう)お姿を目の当たりしたホアンは、思わずその場に跪きました(ひざまず)。そして、大変ありがたいお言葉をいただいたのです。

  「わたしは、(まこと)にあなたがたの慈しみ(いつく)深い母、あなたやこの地に住むすべての人々の母。わたしを愛し、呼び求め、わたしに信頼を置く多くの人々の母。わたしは、その場所で、皆の嘆きや悲しみを聞き届け、痛みや辛さ(つら)惨めさ(みじ)をいやしてあげましょう。・・・」と。

  このグアダルーペの聖母は、メキシコにおける独立戦争、革命の戦い、そして解放運動の推進者たちのまさに旗印(はたじるし)となったのです。

  わたしたちも、被昇天の聖母の取りつぎを願い、今なお貧しさと飢えに苦しんでいる人たち、また搾取と抑圧にあえいでいる人たちのため祈るだけでなく、聖母マリアと共に(まこと)の平和実現のために働くことができるよう、共に祈りたいと思います。

  最後に、聖母の被昇天と敗戦記念日とにちなんで今晩から毎日、各家庭での晩の祈りに、ロザリオの祈り一連を加えて特に平和のために祈ることを、お勧めしたいと思います。

グアダルペの聖母

2010仙台教区<平和を求めるミサ>(10.8.8

 

「和解のために奉仕する任務をわたしたちに」

日本カトリック平和旬間の由来

  今から丁度29年前の1981年の223日から26日までの4日間、時の教皇ヨハネ・パウロ二世は、初めて日本を訪問なさいました。そして25日には、広島を訪れ平和記念公園で全世界に向けて九カ国語を駆使して力強い教皇の「広島平和アピール」を訴えられたのです。皆さんのお手元にある今日のミサの式次第の裏表紙にある「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の命の破壊です。戦争は死です」というお言葉は、そのアピールの中心的なメッセージです。

  このすばらしい「広島平和アピール」を、厳粛(げんしゅく)に受け止めた日本司教団は、早速、その年の5月に開かれた司教協議会定例総会で、「平和と現代の日本カトリック教会―教皇『平和アピール』に答えて」を、正式に発表することを決議しました。そこで、翌年(よくとし)つまり1982年の司教協議会定例総会で、毎年「8月6日から15日までを日本カトリック平和旬間とすること」を決定しました。

  ですから、今年も「2010年平和旬間を迎えるにあたって」という談話において、日本カトリック司教協議会の会長・池永 潤大司教様は、次のように呼びかけておられます。「日本のカトリック信者にとって、特に平和について学び、平和のために祈り、行動する期間となっています。・・・特に今年は世界も日本も平和を求める声がうねりとなってわき起こりました。世界では核廃絶への声、日本国内では沖縄の『もう基地は要らない(い)』という声です。・・・去る5月、長崎教区の高見三明大司教は、原爆によって廃墟となった浦上の地から拾われた<被爆マリア>を携え、米国市民と国連関係者に核廃絶を訴えました」と。

  今年の「広島平和記念式典」には、初めて駐日米国大使が出席しました。また国連事務総長も参加し、核廃絶による世界平和への具体的な一歩を踏み出す決意を表明なさいました。確かに、平和実現に向けて新しい行動が開始されたのではないでしょうか。

和解のために奉仕する

  今日の第二朗読で、パウロは、わたしたちキリスト者には、和解のために奉仕する任務が与えられていることを強調しています。

  「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」と。

  この和解には、個人同士の和解だけでなく、民族同士や国同士の和解も含まれるのではないでしょうか。たとえば、今年の822日は、日本の帝国主義時代に韓国と併合し、朝鮮半島を植民地化した「韓国併合」条約締結の100年にあたります。つまり、日本は大韓帝国を占領した後(あと)、朝鮮総督府を設置して本格的な植民地支配に乗り出したのです。この植民地支配を36年以上も続けることによって、日本は韓国人を抑圧し心を傷つけてしまったのです。

  かなり前のことですが、韓国の教会を訪問し、祈りの集いに参加したことがあります。そこで、その集いが終わるころ、一人の年配のご婦人が、ご自分の感じたことを、次のように分かち合ってくださいました。「今日(きょう)まで、わたしの心には韓国と日本を隔てる大きな壁がありました。けれども、今日(きょう)、このように日本人の神父さんと一緒に祈ることができたので、その壁は崩れました(くず)。神様に感謝したいです」と。ところで、パウロも、キリストこそが、わたしたちの間にある壁を取り壊してくださることを、次のように強調しています。

  「実に、キリストはわたしたちの平和です。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ばされました」と(エフェソの信徒への手紙、214節〜16節)

  教皇ヨハネ・パウロ二世は、広島での「平和アピール」で、いみじくも訴えられました。「過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことです。1945年8月6日のことをここで語るのは、われわれが抱く『現代の課題』の意味を、よりよく理解したいからです。あの悲劇の日以来、世界の核兵器はますます増え、破壊力も増大しています」と。

  ですから、唯一の被爆国である日本は、世界に向けて核兵器の全面的廃絶を力強く訴え続けなければなりません。

すべてのものの平和は秩序の静けさである

ところで、5世紀に活躍した偉大な神学者聖アウグスティヌスは、平和を次のように説明しています。つまり「すべての平和は秩序の静けさである」と(『神の国』1913章冒頭)。すなわち、この地上に最終的に築き上げられる真の平和は、全く新しい秩序が実現することにほかなりません。ですから、今日の第一朗読において預言者イザヤは、メシアの到来によってもたらされる真の平和の秩序を、動物と幼子のイメージで描いております。ちなみにイザヤは、すでに9章で、ダビデ王を理想化したメシアが、平和をもたらすことを、次のように預言しています。

  「ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることはない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる」と(イザヤ書96節)。

  ですから、今日の箇所である11章の6節からは、メシアによってもたらされる全く新しい平和の秩序が、見事に描かれているのです。

  「狼は小羊と共に宿り 豹(ひょう)は子山羊と共に伏す。子牛は若(わか)獅子(じし)と共に育ち 小さい子どもがそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草(ほしくさ)を食らう」と。

  動物の世界だけではなく、人間の社会にも根強くはびこっている「弱肉強食」という恐ろしい原理は全く無くなり、生きとし生ける物が、平和の内に共に生きることができる全く新しい秩序が実現するのです。ですから、真の平和とは、戦争が無くなり、すべての武器が廃絶されるだけではなく、何よりもまず神によって全被造物が恵みに満たされることにほかなりません。

平和を求める祈り

最後に、教皇ヨハネ・パウロ二世が「平和アピール」を締めくくった祈りを、ここで改めて繰り返したいと思います。

  「ここでわたしは、自然と人間、真理と美の創り主である神に祈ります。

  神よ、わたしの声を聞いてください。それは個人の間、または国家の間でなされた、すべての戦争と暴力の犠牲者たちの声だからです。

  神よ、わたしの声を聞いてください。それは人々が武器と戦争に信頼をおくとき、いの一番に犠牲者として苦しみ、また苦しむであろう、すべての子どもたちの声だからです。

  神よ、わたしの声を聞いてください。わたしは、主がすべての人間の心の中に、平和の知恵と正義の力と兄弟愛を注いてくださるよう、祈ります。」

  神よ、わたしの声を聞いてください。わたしたちがいつも憎しみには愛、不正には正義への全(まった)き献身もって対し、貧困には自分を分かち合い、戦争には平和をもって応えることができるよう、英知と、勇気をお与えください」。

ヨハネ・パウロ2世 in広島

年間第18主日・C年(10.8.1

「上にあるものを求めなさい」

神を敬う人の死は

  先日、東京の関口(せきぐち)教会(司教座聖堂)で、久々に葬儀ミサの共同司式に参加することができました。そのミサで「答唱詩編」は、『典礼聖歌』の82番「神を敬う人の死は」が歌われました。「神を敬う人の死は、神の前に尊い、救いの(さかずき)をささげ神の名を呼び求めよう」と、答唱句を参列者全員で、このみことばを深く味わいながら繰り返し歌い、黙想しました。

  今日(きょう)の第一朗読で、コヘレトは、所詮(しょせん)、人間の人生は空しいのものだと、全く悲観的なとらえ方をしていますが、最後の章では、「すべてに耳を傾けで得た結論。『神を畏れ(おそ)、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」と、断言しています

  ですから、『詩編116編』では、「神を敬う人の死は、神の前に尊い」と歌い続けることができるのです。実は、先日の葬儀ミサは、わたくしが30代の時、仙台の教会で洗礼を授けた方の葬儀と告別式でした。それも、娘さんが携帯電話で前日に知らせてくださったお陰で、葬儀ミサをカテドラルのお二人の司祭と共同司式ができたのです。彼女の75年の生涯は、まさに「神の前に尊い」人生だったと思います。洗礼を仙台で受けられたのは、38歳のときでしたが、その後()一家そろって東京に戻られ、関口(せきぐち)教会で聖歌隊や先唱者として熱心に奉仕されました。ところで、70歳になられた頃から、ご自分の信仰体験を少しずつ書き留めていたのです。そして、亡くなられる五カ月前に、その数々の文章を一冊の小冊子にまとめられ出版に漕ぎつける()ことができたのです。その御本の最後の所で、次のように書いています。「家事をしながらその合間に、心に溜まって()いる恵みの言葉を、台所で書き留めておりました。・・・神様は、私をこの環境に置いて、その中で私を使って何かを書かせたかったのかもしれないーそう思わないでもありませんが、ともかく私はいつも、神様の御手(みて)の中で、内的(ないてき)促し(うなが)に従って書かせていただいたのでした。東洋の霊性(れいせい)を備えた日本人として、聖書を味わい深く読み、深い井戸から汲み上げた()普遍性のある水を、渇きを覚える人々に、ふさわしく提供する使命を、深く自覚していたいと思います」と(大橋寛子『東西の霊性、心の旅路、日本人とイエスをつなぐ「いのちの深層」』星雲社、170頁) 

上にあるものを求めなさい  

  今日(きょう)の第二朗読で、パウロはいみじくも勧めてくれます。

「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と。

この方は、日々の生活のただ中で、みことばを霊的な(かて)とすることによって、生活に流されないでいつも「上にあるもの」つまりキリストを求めておられたと思います。その体験を次のように書き遺されました(かきのこ)少し長くなりますが、引用いたします。

  「私たちが、信頼に値する(あたい)人格へと成熟していくために、人間の根源的在りよう()を知り、人間本来の姿として生きていくために、そしてまた、日常生活のただ中で『()』を創り(つく)出し、『神様とより深く交流してそのみ旨を生きていく人』となるためには、聖職者の指導の(もと)で聖書を深く味わいながら、旧約聖書・新約聖書を通読することが必要です。

  聖書全体を深く知ると、『智慧(ちえ)』に目覚めてきます。わたしたちが生きるこの時代を歴史的現実として認識し、洞察(どうさつ)することが可能となる結果、『時代の要請(ようせい)応えて(こた)今何をすべきか』が見えてくるのです。特にキリスト者の場合、聖書全体を深く味わうことにより、『聖霊』によって<内側から神様の愛に潤されて(うるお)いる者>へと変えられていくことが望まれます。そして聖霊に満たされたこれらの人々には、各自がそれぞれの場に散って、『人々の間で、存在者との深い交流の内に生きること』を求められていると思われます」と(同上47頁)。

  このように霊的に深められた言葉を書き遺された(かきのこ)彼女に、心から感謝したいです。 

神の前に豊かになるには 

  ところで、今日(きょう)の第二朗読で、パウロは「古い人をその行いと共に脱ぎ捨てる」ことを勧めていますが、わたしたちの心の中に残っている「古い人」とは、イエスの教えと証し(あか)無頓着(むとんちゃく)なため、人生の目的と意味を間違え、自分自身と自分の利益の中に閉じこもる生き方(いきかた)にほかなりません。それは、今日(きょう)の福音の最後のことば、つまり「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」のことです。

  今日の福音は、ルカだけが伝えている特別な箇所ですが、その文脈は、イエスがご自分のメッセージの重要な点をくわしく語られた直後のことです。

  突然、ある人がイエスに質問したのです。ところが、イエスは、その相談に応じることを、断られます(ことわ)。それは、イエスが関わる事柄でないためです。

  そこで、イエスは、一同に向って宣言なさいます。

「どんな貪欲(どんよく)にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と。

ここで言われている「貪欲(どんよく)」という言葉は、今日(きょう)の第二朗読でパウロが使っているものと同じものであり、それは、「偶像礼拝」にほかならないのです。

次に、イエスは、たとえを語られます。ある金持ちが思い巡らします。彼は、自分の収穫の結果に大満足なのです。彼は、自分の所有物により頼むだけでなはなく、それらをただ自分のためにだけに用いようとしているのです。

「さあ、これから(さき)何年も生きて行くだけの蓄え(たくわ)ができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。

この男の来世での運命については、何も語られていませんが、ここで問題となっているのは、人生において優先すべきことと、人生そのもの意味であります。ですから、パウロは、教えてくれます。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば(しゅ)のために生き、死ぬとすれば(しゅ)のために生きるのです。したがって、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは(しゅ)のものです」と(ローマの信徒への手紙147節〜8節)。

また、ルカは、次のようなイエスのおことばを伝えています。

「自分の持ち物を売り払って施しなさい(ほどこ)擦り切れる()ことのない財布を作り、尽きることのない(とみ)を天に積みなさい。そこには、盗人(ぬすびと)も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの(とみ)のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と(ルカ福音書1233節〜34節)。わたしたちの一回限りの人生が、「神の前に尊い」ものとなるように共に祈りたいと思います。

年間第17主日・C年(10.7.25

「祈りを教えてください」

もう一度だけ言わせて下さい 

  今日(きょう)の第一朗読ですが、先週に引き続きアブラハムが登場します。彼は、三人の旅人の姿で現れた神を真心(まごころ)込めてもてなしたのですが、その後()今日(きょう)の場面は、ソドムという重い罪を犯した町を見下ろす(みお)場所まで来たところから始まります。

  そこで、神がこの町を裁き滅ぼそうとしておられるのを知り、アブラハムは、大胆にも一歩進み出て、神に向かって必死に問い掛けます。

  「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ばされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです」と。それに対して神は、優しくお答えになります。

  「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」と。

  このようにアブラハムは、神のソドムに対する最終決定は、多数の悪い者に基づく(もと)のか、それとも少数の正しい者なのか、もし正しい人によるならば、一体何人いればよいのか、執拗(しつよう)に神に問い掛けます。勿論のこと、アブラハムは神の御前(みまえ)で、徹底してへりくだります。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」と。そして、とうとう最後に思い切って尋ねます。

  「主よ、どうかお怒り(いか)にならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません」と。それに対して、神はお答えなります。

  「その十人のためにわたしは滅ぼさない」と。

  このように、神に全面的に信頼しきっているアブラハムの熱烈(ねつれつ)な祈りによって、ついに神の豊かな深い憐れみを引き出すことができたのではないでしょうか。 

神は、わたしたちの一切の罪を赦してくださる

次に、今日(きょう)の第二朗読ですが、パウロ自身が書いたのではなく彼の神学を受け継いだ者によると考えられますが、わたしたちの信仰の核心に触れる教えであります。つまり、わたしたちは、「洗礼によって、キリストと共に葬られ(ほうむ)

また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」と。そして、さらに誠にありがたい罪の赦しについて教えてくれます。

  「罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦してくださいました」と。

  アブラハムのように、わたしたちが天の御父に向って心を込めて、祈り続けることができるのは、すでにイエス・キリストによってすべての罪を赦していただいたからにほかなりません。つまり、イエスによって示された神の深い憐れみを体験しているので、天の御父の憐れみを願い続けることができるのです。 

わたしたちにも祈りを教えてください

次に、今日(きょう)の福音は、イエスが弟子たちにどのように祈るべきか、懇切(こんせつ)ていねいに教えてくださったことを伝えています。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と、弟子たちは、イエスに御願します。そこで、イエスは、まさに模範的な祈りを、教えてくださいました。わたしたちが、毎日唱えている「主の祈り」のルカが伝えている箇所です。実は、カトリック教会が伝統的に「天にましますわれらの父よ」と唱えて来た「主祷(しゅとう)(ぶん)は、マタイ福音書で伝えられている形によるものでした。ですから、口語体(こうごたい)に直した今の「主の祈り」も、原型はマタイ福音書(69節〜13節参照)にあるものです。

  今日(きょう)の箇所では、ルカは、「父よ」という単純な呼びかけで始まる形を伝えていますが、この「父よ」という言葉の背景にはアラマイ語の「アッバ」があります。この呼び方は、幼子(おさなご)が自分の父親を親しみと信頼を込めて呼ぶときに使われる、幼児語の流れを汲んだ()ものです。実は、マルコ福音書では、イエスがゲッセマネで、最後の晩さんの(あと)、天の御父に向って熱烈な祈りをささげている場面で次のように使われています。

  「少し進んで行って地面(じめん)にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この(さかずき)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心(みこころ)適う(かな)ことが行われますように』と」(マルコ福音書1435節〜36節)。これが、イエスがひどく恐れてもだえ始め、「死ぬばかりに悲しい」(同上1433節〜34節)さなかに叫ばれた祈りなのです。

  イエスは、今日(きょう)の箇所では、この「父よ」という呼び掛けに続く五つの祈りを教えてくださいます。初めの二つは、神のための祈りです。つまり、御名(みな)があらゆる場所で崇められ(あが)、また御国(みくに)すなわち神の愛と慈しみの支配が実現しますようにと祈ります。これは、神による救いの完成を願う祈りにほかなりません。すなわち、神の救いの実現によって神の名が聖なるものであることが示され、それに気づく人々が御名(みな)崇める(あが)ようになるのです。

  続いて、「わたしたち」のための祈りが三つ続きます。まず、必要な(かて)が毎日与えられ、わたしたちの罪が赦され、また、誘惑遭わせないで()くださいと祈るのです。ここで、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と祈るのは、神に罪を赦してもらうためには、まず、自分も常に他人を赦す心構え(こころがま)が必要だからです。

  そして、さらに二つのたとえが語られますが、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」ことを強調なさいます。大変、勇気づけられるおことばではないでしょうか。

  また、二つ目のたとえによって、不完全な人間の父親でさえ子どもには良い物を与えるのだから、まして、完全であられる天の御父(おんちち)は、何と「聖霊」をくださることを教えてくださいます。ところで、マルコによれは、この「聖霊」は、特に迫害に耐えている人々に語るべき言葉を与え、困難を乗り越えさせる力なのです(マルコ福音書1311節参照)。また、パウロは、聖霊がわたしたちのために絶えずとりなしておられることを、次のように説明しています。

  「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。・・・“霊”自ら(みずか)が、言葉に表せないうめきをもって執り成して(とりなして)くださるからです」と(ローマの信徒への手紙、826節)。

  聖霊に助けられながら、日々、熱心に祈り続けることができるよう、共に願いたいと思います。

 

年間第16主日・C年(10.7.18

「みことばをもてなす」

天幕から出て、迎える 

  今日(きょう)もまた、わたしたちは、このミサの「ことばの典礼」においてマルタの妹マリアのように、神のことばに「聞き入って」います。なぜなら、みことばは、神のいのちをわたしたちの心に注いでくださるからです。ですから、神は第二イザヤの口を通して次のように日々呼びかけておられるのではないでしょうか。

  「わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂にいのちを得よ」と(イザヤ書552節から3節)。このように、みことばは、わたしたちの信仰を育てるためになくてはならない日々の霊的な食物(しょくもつ)なのです。

  そこで、今日(きょう)の第一朗読ですが、神がアブラハムの天幕を訪れ、男の子が一年後に生まれるというみことばを、いかにていねいのもてなしたかを、感動的に語っています。

  まず、神は三人の旅人(たびびと)の姿で、アブラハムに現れたのです。暑い(あつ)真昼に」とありますから、気温は恐らく40度を超えていたかも知れません。ですから、アブラハムは「天幕の入り口」の日陰で休んで(やす)いたのですが、すぐに天幕の入り口から走り出て、地にひれ伏して、」ねんごろに客をお迎えしたのです。「お客様、よろしければ、どうか、(しもべ)のもとを通り過ぎないでください。水を少々(しょうしょう)持って来させます()から、足を洗って、木陰(こかげ)でどうぞひと休みなさって(やす)ください。何か召し上がるものを調えます(ととの)ので、疲れをいやしてから、お出かけください、せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」と。そして、「アブラハムは、凝乳(ぎょうにゅう)(ちち)、出来たての子牛の料理など」で、まさに豪華な食事を用意します。「そして、彼らが木陰(こかげ)で食事をしている間、そばに立って給仕をした」のです。ところが、旅人の一人が突然、最高に喜ばしい知らせを告げたのです。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの(つま)のサラに男の子が生まれているでしょう」と。

  実は、アブラハムがすでに75歳を過ぎたときですが、神は約束なさいました。「あなたの子孫を大地(だいち)砂粒(すなつぶ)のようにする。大地(だいち)砂粒(すなつぶ)が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」と(創世記1316節)。ところが、彼が百歳近くなるまで、子どもは一人も授かりません(さず)でした

  ですから、今日(きょう)のアブラハムが客人を献身的にもてなしたという感動的な出来事は、この喜ばしい知らせつまりお男の子が生まれることを告げた神のことばを、どれほど真心(まごころ)込めて受け止めたかを物語っているのではないでしょうか。したがって、わたしたちも日々、アブラハムのように心をこめて神のことばの一言(ひとこと)ひとことをもてなさなければなりません。実は、イエスは、種まきのたとえを用いて、みことばを真剣に信仰の耳で聞くならば、必ず豊かな実りがあることを教えてくださいました。

  「良い土地に落ちたのは、立派な善い心でみことばを聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と(ルカ福音書815節)。 

みことばを余す(あま)ところなく伝える 

  ところで、今日(きょう)の第二朗読は、使徒パウロすなわち地中海沿岸に住む異邦人の国々に福音を伝えた偉大な宣教者が、ローマの獄中からコロサイの教会の信徒を励ますために63年ごろに書いた手紙からとられています。

  「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの(からだ)である教会のために、キリストの苦しみの欠けているところを、この身をもって満たしています」と。

  ここで言われている「キリストの苦しみ」とは、イエスご自身のご受難のことではなく、「キリストにおけるわたしたちの苦難」の意味です。つまり、イエスが、全人類を救うために引き受けられた苦難は完全ですが、教会が共同体として築き上げられていくためには、わたしたちも様々な苦しみを担って行かなければならないことの模範を、パウロが示してくれたのです。

  さらに、パウロが神から自分に与えられた尊い使命について確認します。

  「神は、みことばをあなたがたに余す(あま)ことなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」と。したがって、パウロが体験したさまざまな困難(こんなん)は、すべてみことばを伝えるために受けたものにほかなりません

必要なことはただ一つだけ

次に、今日の福音ですが、ルカだけが伝えている出来事です。つまり、イエスが、マルタとマリアという姉妹を訪問なさったときの様子を語っています。

  実は、このルカ福音書の文脈では、イエスが、ご自分の受難と死が待っている(みやこ)エルサレムに向けての最後の旅路を始めたときの出来事になります。ヨハネによれば、この姉妹が住んでいたのは、エルサレムに近いベタニアという村ですが、「マルタという女が、イエスを家に向え入れた」のです。当時のユダヤ人社会では、男性が親族以外の女性と一対一(いったいいち)で接し、また、女性が男性を自分の家に迎え入れてもてなすることは、普通の習慣ではありませんでした。ですから、イエスのとった行動は、男性と女性の間には何の差別もないことを宣言し、すべての人が平等に永遠のいのちへの道に招かれていることを示されたことになります。

  そこで、マルタとマリアのイエスに対するもてなし(かた)が極めて対照的でした。まず、妹のマリアのほうですが、「(しゅ)の足もとに座って、その話に聞き入っていた」のです。この「足もとに座る」とうことですが、権威ある先生の教えに耳を傾けている弟子の姿勢にほかなりません。

  一方(いっぽう)、姉のマルタですが、とにかくイエスをもてなすために「せわしく立ち働いて」いました。この「せわしく立ち働く」というのは、もともとは「周り(まわ)から引かれている」ことを表します。ですから、マルタは、まさに中心であるイエスから離れ、いろいろともてなしに注意を奪われ(うば)、心を悩ませて(なや)いたことになります。そこで、マルタは自分だけにもてなしの準備をさせている妹に対する不満を、なんとイエスに向けて訴えた(うった)のです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。

  それに対して、イエスは、優しく諭されます(さとさ)「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱して(みだ)いる。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならい」と。

  結果的に、マルタは食事の準備にあまりにもとらわれてしまい、そのときイエスが求めていたもてなし、つまり、妹のマリアのようにイエスの足もとに座って、その話に聞き入ることができなかったのです。最後に、すでに引用したイザヤ書のことばを繰り返します。「耳を傾けて(かたむ)聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂にいのちを得よ」と。

マリアとマルタの家のキリスト(フェルメール)

年間第15主日・C年(10.7.11

「信仰を愛の実践によってあかしする」

みことばを行うことが出来る 

  今日(きょう)の第一朗読は、旧約聖書の五番目の書物『申命記』からとられています。この書物は、エジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民が、四十年にわたる荒れ野の旅を終えてようやくヨルダン川の東岸(ひがしぎし)に到着したときに、モーセが語った遺言の書であります。約束の地つまり「乳と蜜の流れる土地」カナンに入ることが出来たのは、実は紀元前13世紀ですが、この書物が書かれたのは紀元前6世紀になってからです。

  とにかく、モーセは、その約束の地をヨルダン川の彼方(かなた)に見渡しながら、イスラエルの信仰の原点に立ち帰るように民に向かって切々(せつせつ)訴えたのでした。

  「この律法の書に記されて(しる)いる戒め(いまし)と掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰りなさい。・・・みことばは、あなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と。

  ここで強調されているみことばは「あなたの口と心にある」とは、同じ『申命記』の66節から9節の言葉を念頭においた表現と考えられます。つまり、

  「今日(きょう)わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚え(おぼ)として(ひたい)に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」というくだりです。

  このように日ごろから神の掟を「口」を用いて(もち)子どもに語り聞かせ、「心」をこめて記憶に留めて(とど)いるなら、それを実行することが出来るのです。しかし、今日(きょう)の箇所の最後に言われている「それを行うことができる」のは、実に「神の働きかけに促され(うなが)て、行うことができるようになる」と受け止めるようになったと思われます。つまり、わたしたちがいつの時代においても神の掟を守ることができるのは、神の恵みに支えられるからにほかならないことが強調されているのです。 

永遠のいのちを得るために  

次に今日(きょう)の福音ですが、まさにイエスの教えの核心に触れるメッセージを語っています。先ず、律法の専門家が、イエスを試そう(ため)として、最も大切な質問をします。「先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるしょうか」と。それに対してイエスは、即答(そくとう)を避け問い返します。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と。そこで、律法の専門家ですから、即座に旧約聖書の『申命記』の6章5節とレビ記の1918節を引用して答えます。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と。そこで、イエスは、その答えが正解であることを認めた上で、はっきりと命じられます。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすればいのちが得られる」と。しかしながら、この律法の専門家は、自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と問い返します。ここで言われている「自分を正当化する」という用語ですが、ルカがよく使う表現で、「自分は正しい人間であることを示す」とも訳すことができます。つまり、ルカは、「律法の専門家」や「ファリサイ派の人々」は、「自分は正しい人間だ」と思い込んでいる(やから)だと考えていたのです。

  ですから、この律法の専門家は、すぐに尋ねます。「では、わたしの隣人とはだれですか」と。とにかく、彼は律法の専門家ですから、「隣人とはだれか」くらいは当然よく分っているはずです。つまり、当時のユダヤ教徒にとって「隣人」とは、ユダヤの「同胞」のことで、とりわけユダヤ教徒に限定されていました。

  したがって、この律法の専門家は、自分の問いに対してイエスが、「隣人とはイスラエルの民である」とお答えになることを予想していたと思われます。

  ところが、これに対して、イエスはこの「善いサマリア人」のたとえをもって答えらました。 

「行って、あなたも同じようにしなさい」

「エルサレムからエリコに下って(くだ)いく途中」の道は、山道で今でも寂しく(さび)

荒れ果てています。「たまたまその道を下って(くだ)来た」「祭司」とは、おろらく、エルサレム神殿における奉仕を終えて、エリコにある自分の家に帰る途中だったのでしょう。ちなみに、当時、エルサレム神殿には約8000人の「祭司たち」と約一万人の「レビ人」つまり「下級祭司」たちが仕えていたそうです。

  とにかく、この祭司もレビ人(れびびと)のいずれも「道の向こう側を通って」、追剥(おいはぎ)に襲われて半殺しにされて倒れている人に関わることを、避けました。道の反対側に倒れている旅人は、すでに死んでいたと勘違い(かんちが)したのでしょうか。ちなみに、当時、聖職者には、汚れる(けが)から死人に触れてはいけないという掟(レビ記21.1参照)がありました。

  ところが、同じように「旅をしていたサマリア人」がこの傷つき倒れているユダヤ人の「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の驢馬(ろば)に乗せ、宿屋(やどや)に連れて行って介抱(かいほう)した」のです。実は、当時、ユダヤ人とサマリア人は、まさに犬猿(けんえん)間柄(あいだがら)で日ごろはほとんど接触していませんでした。ですから、このサマリア人のとった行動は、まさに例外的であったと言えます。

  イエスは、わたしたち一人ひとりが、特に助けを必要としている方々に積極的に近づき、関わることによって隣人愛の実践を呼び掛けておられるのです。

  以前、聞いた話しですが、戦争から逃れた難民が収容されている収容所の悲惨な生活が、ある報道番組でテレビに放映されました。ところが、たまたまそのテレビを、三歳になるお孫さんと、お爺さんが一緒に見ていたそうです。そこで、難民の惨めな子どもたち様子が映し出されたときです、そのお孫さんは、自分が食べかけていたお菓子を、思わずテレビに向けて「これを食べなさいよ」と、差し出したのです。ところが、そのお孫さんのしたことを、横で見ていたお爺さんが、一大決心をしました。「わたしの孫は、何と優しい心の持ち主か、わたしも孫に倣って、自分の貯金から一千万円をそっくり難民救済のために寄付しよう。しかも、匿名で、ただ一言<孫の心より>というメモを添えて」と。わたしたちの愛は、民族の違いや国境を越えて、助けを必要としている「イエスの兄弟」(マタイ福音書2540節参照)の隣人になるよう駆り立てます。なぜなら、神の力強い(ちからづよ)愛に突き動かされるからです。ヨハネは、手紙に書きました。

  「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う(つぐな)いけにえとして、御子(おんこ)をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と(ヨハネの手紙一、4.10-11)。

年間第14主日・C年(10.7.4

「この家に平和があるように」

平和を大河のように 

  今日の第一朗読は、便宜上(べんぎじょう)第三イザヤと呼ばれる箇所からとられています。実は、この第三イザヤは、イザヤ書の56章から最後の66章までですが、紀元前六世紀末から紀元前五世紀初頭につまりバビロン捕囚からイスラエルの人々が解放されようやく故国に戻ることが出来た時代に活躍した一無名の預言が書いたものと考えられます。

  バビロンの近郊に強制移住させられていた捕囚民は、ペルシャの王キュロスのお陰で(イザヤ書451節参照)ようやく帰国でき、紀元前515年には念願のエルサレムの神殿の再建を、成し遂げることができたのです。

  けれども、すでに預言者たちが約束していた神の栄光は現れず、かえって神への信頼が揺らいで()しまったのです。そのような「闇」と「暗黒」とも言える時代のただ中で、今日の第一朗読が告げる励ましと希望の預言が語られたのです。

  「エルサレムと共に喜び祝い 彼女のゆえに喜び躍れ(おど)、彼女を愛するすべての人よ」と。

  つまり、(いま)、イスラエルの民が取るべき態度は、神への信頼に基づいて(もと)喜ぶことにほかなりません。なぜなら、それが出来るのは、次のような神のことばが、必ず実現すると全面的に信頼しているからです。

  「見よ、わたしは彼女に向けよう 平和を大河(たいが)のように、国々の栄えを洪水の流れのように」と。

  平和と諸国の輝きが、エルサレムへと流れ込み、エルサレムを愛している者はそれを豊かに受けることが出来るというのです。そして、子どもが母親の乳を飲み、その胸に抱かれ(いだ)(ひざ)の上であやされるように、イスラエルの民は、神から愛と慰めを豊かに受けることになるのです。

  このように、当時のエルサレムの暗い惨めな現状を嘆き悲しんでいるイスラエルの人々とは違い、預言者は、神が大きな慰めを与える日が必ず到来すると信じていたのです。

わたしはあなたがたを遣わす

  そして、今日(きょう)また改めて、この第三イザヤの預言が、イエスによってものの見事に実現したことを確認できるのです。

  ところで、今日(きょう)の福音は、ルカだけが伝える七十二人の弟子たちの派遣の場面を、三つの段階に分けて語っています。

  最初に、福音を伝えるために派遣される宣教の旅についての心構えが語られます。宣教者は、なによりもまず「祈る人」でなければなりません。ですからイエスは、命じられます。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の(しゅ)に願いなさい」と。旅を続けながら、収穫の(しゅ)である神が、働き手を送ってくださるように祈らなければなりません。

  このように、イエスが弟子たちに「行きなさい」と命じるより前に、「願いなさい」と教えるのは、福音つまり神の国の到来を告げ知らせることは、そもそもわたしたちの働きではなく、むしろわたしたちを通して神ご自身が働いておられることだからです。

  ですから、イエスが「行きなさい」と命じられる時には、必ず「わたしがあなたがたを遣わす」と励ましてくださるのです。

  また、「それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と、特に迫害の時代に宣教することは、つねに自分の命を危険にさらすような困難が伴うのです。

  ここで、17世紀におけるキリシタンの迫害時代の、福者司祭殉教者たちの姿を紹介したいと思います。司祭たちは、いずれもあらゆる苦難が予想される中で特に迫害に苦しむ信者たちに仕える道を選びました。ペトロ岐部(きべ)神父は、過酷な三年にも及ぶ旅の(すえ)やっとローマに辿り(たど)つき司祭に叙階されますが、激しい迫害の嵐が吹きまくっている日本に戻り、九州から東北に至るまで信徒を訪ねて旅を続けました。また、ディエゴ結城(ゆうき)(りょう)(せつ)神父は、追放された信徒を津軽まで見舞い、捕えられた(のち)、一人で山中に住んでいたと役人を納得させ、信徒に取り調べが及ぶことを防ぎました(ふせ)また、トマス金鍔(きんつば)()兵衛(ひょうえ)神父は、馬蹄(ばてい)となって役所に潜入し牢内の信徒たちを励まし、巧みに捜索(そうさく)を逃れ、長く生きて信徒たちに奉仕しようとしました。

 財布も袋も履物(はきもの)も持って行くな

  さらに、イエスは弟子たちに命じられました。「財布も袋も履物(はきもの)も持って行くな」と。福音宣教は、神からの派遣なので、神の配慮は、宣教者が必要としているものにまで及びます。ですから、わたしたちが何も持たないことで、かえって神の働きが、ますます明確に示されるのではないでしょうか。

 この家に平和があるように

   派遣の第二段階として、それぞれの家を訪問したときには、「この家に平和があるように」と告げなければなりません。第三イザヤが預言した「見よ、わたしは彼女に向けよう 平和を大河のように」は、まさにイエスがもたらしてくださる平和にほかなりません。ですから、復活させられたイエスが、弟子たちに二度にわたって宣言なさいました。「あなたがたに平和があるように」と(ヨハネ福音書201921章)。そこで、パウロは、次のようにイエスこそわたしたちの平和であることを、雄弁に語ります。

  「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、

ご自分の肉において敵意という隔て(へだ)の壁を取り壊し(とりこわし)、・・・こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者(りょうしゃ)を一つの(からだ)として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と(エフェソの信徒への手紙214節〜16節)。

 神の国はあなたがたの近づいた

   さらに派遣の第三段階には、宣教者が運ぶ「キリストの平和」は、人種や国籍や身分や性別を超えて全人類に及びます。ですからそれは、同時に神の国の到来を告げ知せることになるのです。イエスは、宣言なさいました。

  「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところに来ているのだ」と(マタイ福音書1228節)。

  今日(きょう)もまた、このミサの終わりにわたしたちは主イエスによってそれぞれの家庭、地域、職場に福音を伝えるために派遣されて行きます。わたしたちが出会い、関わる一人ひとりにイエス・キリストを伝えることができるように、共に祈りたいと思います。

使徒たち(イコン)

年間第13主日・C年(10.6.27

「イエスの弟子の覚悟」

エリシャの召命 

  今日(きょう)の第一朗読は、預言者エリヤの後継者であるエリシャの召し出しについて語っています。まず、このエリヤですが、紀元前9世紀に北イスラエル王国で活躍した預言者です。実は、この王国のアハブ王の(きさき)イゼベルは、バアルという偶像を礼拝するシドン人でしたが、エリヤがこのバアルの預言者たち450人をキション川で皆殺しにしたことを知って、エリヤを殺害しようとします。そのことを聞いたエリヤは、恐れをいだいて直ちに南王国に逃亡(とうぼう)し、荒れ野に逃げ込みます。そして、四十日四十夜歩き続け、やっと神の山ホレブに辿り(たど)つきます。そこで神と出会い、エリシャを後継者にするよう命じられます。「アベル・メホラのシャファトの子エリシャに油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ」と。

  この神のことばに従い、エリヤは直ち(ただ)に出発します。そして、牛を使って畑を耕して(たがや)いるエリシャに出会うことができました。エリヤは、エリシャのそばを通り過ぎるとき、自分の外套(がいとう)を彼に投げかけ、自分の後継者に選んだことを表します(列王記下213節参照)。そこで、エリシャは、自分の預言者としての召命を受入れます。そして、エリシャは、いったん自分の家族のもとに戻り、エリヤの後継者になる決断を、皆に祝ってもらうために牛を屠り(ほふ)振る舞います。とにかく、当時、預言者の召命を受けることは、全面的に神に仕えるために自分の人生の方向を変え、新しい生き方を始めることだったのです。ですからエリシャの預言者としての新たな出発を、次のように簡潔に伝えています。「それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた」と。 

イエスのエルサレムに向かわれる決断 

  次に、今日(きょう)の福音ですが、その箇所の文脈を、確認したいと思います。まず9章の21節から22節で、実は、イエスの死と復活の最初の予告が語られます。そして28節から36節で、イエスの山の上でのご変容の出来事が説明されます。次にまた44節で受難の二回目の予告があります。これを受け、951節では、「天に上げられる時期が近づいた」ことを知ったイエスが、エルサレムに向かう決意を固められます。つまり、イエスはご自分の御父から与えられた使命を悟り、神のご計画を実行するためにエルサレムに向かう決断をなさいます。しかも、このイエスと弟子たち一向のエルサレムへの旅は、同時に、弟子たちにそれなりの覚悟を迫る旅でもありました。

  ところで、51節から56節には、預言者エリヤを思い起こさせる表現が

あります。つまり、51節の「天に上げられる」(列王記下211節参照)、また52節の「先に使いの者を出された」(マラキ書31節、23節参照)、そして54節の「火を降らせて()彼らを焼き滅ぼしましょうか」(列王記下110節〜12節参照)の三か所です。このようにエリヤを思い起こさせるような表現を用いたのは、神の支配が、まさに今ここに接近していることを強調するためです。ですから、イエスがユダヤ人と敵対関係にあるサマリア人の村にわざわざ入ろうとなさったのは、神の支配は、すべての人に例外なく()べ伝えなければならないという信念に基づいた(もと)行動だったのです。したがって、たとえサマリア人の村では、案の定(あんのじょう)歓迎されなくても、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言う弟子たちの過激な提案を戒められ(いまし)、さらに別の村に移動したのでした。 

イエスの弟子となる覚悟 

  さらに、エルサレムに向かうこの最後の道すがら、三人の人物が次々と現れなんとイエスの弟子になりたいと願い出ます。

  そこで最初に、イエスに直接、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と名乗り出た人が登場します。この人物は、まさかイエスが、エルサレムでの受難と死を目指して旅を続けておられるとは全く知らずに、名乗り出たのです。そこで、イエスは、まさに単刀直入(たんとうちょくにゅう)に答えられました。

  「(きつね)には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には(まくら)する所もない」と。まさに、イエスご自身の生き方の厳しい現実を説明なさったのです。

とにかく、人の子には、休むための宿を断られる(ことわ)こともあるし、安らぐ(やす)場所もないと告げられます。

  次に、別の人に今度はイエスのほうから、呼びかけられます。「わたしに従いなさい」と。ところが、この人物は、まず、自分が差し当たってやらなければならないことを、申し出ます。「主よ、まず、父を葬り(ほうむ)に行かせてください」と。これに対して、イエスは、全く思いもよらないことを、命じられます。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と。当時、死者の埋葬はすべてに優先する大切な宗教的義務でした。けれども、イエスは、それは「死者」がすればよいことであると、まさに意外なことを言われたのです。ここで言われている「死者」とは、恐らくイエスが告げ知らせた神の国の到来にまだ気づいていない人たちのことと考えられます。したがって、神の国がわたしたちのただ中に実現していることを(ルカ福音書1120節参照)目の当たり(まのあたり)にした人は、何よりも先にまず神の国の到来を言い広める責任があるのです。ちなみに、神の国では、まさに死をも克服できる神の力が与えられるのでないでしょうか。ですから、イエスは、宣言なさいました。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と(マタイ福音書510節)。

  さらに、三番目に登場する人物ですが、イエスに従う決意を表しますが、まず家族にいとまごいに行かせてもらいたいと、願い出ます。ちなみに、エリシャは、エリヤの弟子になる召命を受けたとき、いったん家族のもとに戻っていとまごいをすることが許されました。家族から離れて、新しい人生を歩み始めるとき、家族に別れの挨拶をするのは、ごく当たり前のことではないでしょうか。なぜ、イエスは、いとまごいすることをもお許しにならなかったのでしょうか。とにかく、イエスは、次のように答えられました。「(すき)に手をかけてから後ろを顧みる(かえり)者は、神の国にふさわしくない」と。これは、イエスに従う者に求められる基本的な姿勢を強調なさったおことばにほかなりません。(すき)を使って畑に畝筋(うねすじ)をつけるとき、若しよそ見をするようなことがあれば、その(うね)(みち)

はすぐ曲がって()しまします。イエスに日々忠実に従いたいなら、脇道(わきみち)にそれないように、常にイエスのおことばを心に留め、イエスの示す道から外れて(はず)しまわないようにということです。それは、みことばに忠実に従うことによって豊かな実を結ぶ生き方の実践にほかなりません。ですから、イエスは、次のようなたとえを語られました。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心でみことばを聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と(ルカ福音書815節)。

  わたしたちも、日々、忠実にイエスに従うことができるように共に祈りたいと思います。

年間第12主日・C年(10.6.20

「清める泉が開かれる」

突き刺した者を見る 

  今日の第一朗読は、旧約聖書が語るメシア預言の一つと考えられます。ですから、ヨハネ福音書は、イエスの十字架上での死の場面を描く中で、次のように今日の朗読箇所の10節の言葉を引用しています。

  「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない(くだ)』という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』と書いてある」と(ヨハネ福音書19 3637節)。

  つまり、預言者ゼカリヤは、メシアがどのような死に方(かた)するのかを、既に旧約時代に預言したことになります。また、当然のことながらイエスの十字架上のお姿を目撃した者は、もっと詳しく(くわ)報告することができます。それは、ヨハネ福音書で次のように確認されています。

  「イエスの所に来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が(やり)でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証し(あか)しており、その証し(あか)真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」と(ヨハネ福音書1933節〜35節)。

  ちなみに、この場面を見事に解釈している聖ボナベントゥラ司教の説明を紹介したいと思います。

  「十字架上で眠っておられるキリストのわき腹から教会が形づくられ、『彼らは、彼ら自ら(みずか)が刺し貫いた者を見つめるであろう』と述べる聖書の言葉が成就するために、一人の兵士が(やり)でその聖なるわき腹を刺し貫くことを神のみ旨はよしとされた。そのため、水とともに血が流れたが、それはわたしたちの救いの代価(だいか)として注ぎ出されたのである。この水と血はイエスのみ心の奥底から流れ出て、恵みのいのちをもたらす力を教会の諸秘跡にもたらし、すでにキリストに結ばれて生きている人々にも、『永遠のいのちにいたる水がわき出る』生きた泉からくまれた飲み物となるのである」と(『毎日の読書』第5巻年間2、147頁)。とにかく、イエスの流された御血によって、わたしたちの罪が赦されたのです。また、十字架上でイエスは、ご自分のわき腹から教会を産み出されたことになるのです。 

キリストを着る 

  次に、今日の第二朗読で、パウロはイエスとわたしたとの結びつきの大切さを、次のように強調しています。

  「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と。

  ちなみに、洗礼式では、次のような典礼を行います。

  そこで、司式司祭は、宣言します。

「白い(ころも)受けなさい。あなたは新しい人となり、キリストを着る者となりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい」と。

つまり、洗礼とは「わたしたちがキリストの中に入れられ、まさにキリストの中にすっぽりと包まれるような親密な関係を結ぶ」ことにほかなりません。

また、パウロは、洗礼によってわたしたちは、新しいいのちを生きる者になることを、次のように強調しています。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ(ほうむ)、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです。・・・わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された(からだ)が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」と(ローマの信徒への手紙、64節〜6節)。

実は、イエスが弟子たちと別れる際に語られた告別説教で、わたしたち一人ひとりのイエスとの結びつきの大切さを、次のように切々(せつせつ)と語られたのです。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながってない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ捨てられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と(ヨハネ福音書155節〜7節)。

イエスにつながっているために、まず、イエスのお言葉を自分の心の中にしっかりと留めて(とど)深く味あう必要があります。また、特に日々の愛の実践によって、キリストに結ばれ豊かな実を結ぶことができるのです。 

十字架を背負って、キリストに従う

さらに今日の福音は、キリストの弟子になるための基本的な生き方についてのイエスのご命令を、次のように伝えています。

  「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

  つまり、イエスに全面的に従うために、まず自分を捨てなければなりません。それには、イエスの思いや考えにそぐわない自分中心の思いや考えをいさぎよく捨てる必要があります。例えば、ペトロが、イエスから「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と(マタイ福音書1623節)、厳しく(きび)戒め(いまし)られたように、わたしたちが考えることや、自己主張することは、往々(おうおう)にして神の御心にそぐわないことが多いのではないでしょうか。ですから、イエスはずばり、「自分を捨てなさい」と命じられるのです。それは、イエスに自分自身を全面的に引き渡し、イエスのお言葉に忠実に従うことです。そして、自分のすべてをイエスに差し出し、イエスの道具として使っていただくことではないでしょうか。

  次に、「日々、自分の十字架を背負いなさい」とおっしゃいます。つまり、日々背負い続けなければならない自分の十字架があるのです。なぜなら、自分の思いや考えを捨ててイエスに従おうとするなら、当然、苦しみが付きまとうからです。けれども、イエスご自身がわたしたちを支えてくださるので、自分の十字架を背負い続けることができるのです。イエスは、いみじくもおっしゃいました。

  「疲れた者、重荷(おもに)を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と(マタイ福音書1128節〜30節)。

十字架を背負うキリスト

年間第11主日・C年(10.6.13

「愛とゆるしの源である神よ」

罪の正体とは 

  今日の第一朗読に登場するダビデ王は、イスラエルが王国時代を迎えたときの二代目の王です。父親はエッサイで、彼は八人兄弟の末っ子でしたが、サムエルによって(あぶら)注がれ(そそ)、一代目の王サウルに仕えて(つか)いました。彼は羊飼いでしたが、将軍政治家としての優れた(すぐ)能力があり、まず紀元前1010年にヘブロンにおいてユダの王となり、それから七年半後(ななねんはんご)には北イスラエルの王に推挙(すいきょ)されたので、初めて彼によって統一国家が形成されたのです。そして、このダビデ王の時代にイスラエルは大いに繁栄(はんえい)したため、いつしか彼は王の理想像に祭り上げられただけでなく、やがてメシア預言に結び付けられます。つまり、ダビデの子孫からメシアが生まれるとう預言です。ですから、預言者ナタンの次のような預言が伝えられています。

  「主があなたのために家を興す(おこ)。あなたが生涯を終え()、先祖と共に眠るとき、あなたの()から出る子孫に(あと)継がせ()、その王国を揺るぎ()ないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座(おうざ)をとこしえに堅く据える()。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と(サムエル記下7.11-14)。

  しかしながら、この理想化されたダビデ王は、実は、大きな罪を犯してしまいました。つまり、忠実な部下の妻に一目ぼれ(ひとめ)したダビデ王は、その部下を戦いの最前線(さいぜんせん)に送り戦死させ、彼女を自分の妻にしてしまったのです。ですから「ダビデのしたことは主の御心(みこころ)適わなかった(かな)」(同上11.27)と罪の本質が説明されています。

  すなわち、わたしたちが犯す罪とは、神の御心(みこころ)背く(そむ)ことにほかなりません。それは、結果的に神を愛することを半永久的(はんえいきゅうてき)(きょ)絶する(ぜつ)ことになるのです。

  ですから、罪は天の御父(おんちち)に対して何かを拒む(こば)行為であるだけでなく、父なる神と神の愛から自分自身を引き上げてしまうことになります。つまり、もう神の愛に頼りたくない、神に依らず()、自分自身ですべてを決定し行動したいというのがまさに罪の正体(しょうたい)です。

回心したダビデ  

それでは、回心して罪が赦されるために、何をすればよいのでしょうか。今日の第一朗読箇所の最後のところで、ダビデ王の回心と罪の赦しが簡潔に報告されています。

  「ダビデはナタンに言った。『わたしは(しゅ)に罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『その(しゅ)があなたの罪を取り除かれる(とりのぞかれる)。あなたは死の罰を免れる(まぬが)。』と。」

  まず、ダビデが叫んだように、「わたしは(しゅ)に罪を犯した」と、全面的に神に自分自身を差し出すことから、回心が始まるのです。それは、自分の犯した罪を心から悔い改めることによって、根本的に神に立ち帰ることです。実は、詩編の中に、ダビデの回心した時の祈りが伝えられています。

  「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみ(おんいつく)をもって。深い御憐れみ(おんあわ)をもって 背き(そむ)の罪をぬぐってください。わたしの(とが)をことごとく洗い 罪から清めてください。・・・あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目(おんめ)悪事(あくじ)見られることをしました。・・・ヒソプの(えだ)でわたしの罪を払って(はら)ください。

わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」と(詩編51.3-9)。

  ナタンがいみじくも「(しゅ)があなたの罪を取り除かれる」と宣言したように、神こそがわたしたちの罪をゆるすことがお出来になるのです。

  ちなみに、「ゆるしの秘跡」について簡単に説明したいと思います。

  罪を犯したわたしたちは、聖霊の導きによってこの秘跡に近づいて行けるのです。ですから、先ず()罪を糾明(きゅうめい)し、悔い改めの決心をします。すなわち、犯した罪を悲しみ、忌み()きらうだけでなく、再び罪を犯さないと心に決めるのです。次に、実際に罪を告白するのは神に対してであり、司祭は神の道具に過ぎません。ですから、司祭は次のように赦しの祈りを唱えます。

  「全能の神、あわれみ深い父は、御子(おんこ)キリストの死と復活によって世を ご自分に立ち帰らせ、罪の赦しのために聖霊を注がれました。神が教会の奉仕の務めを通して あなたに ゆるしと平和を与えてくださいますように。わたしは、父と子と聖霊の み名によって、+あなたの罪をゆるします」と。 

新たに生まれ変わる 

  回心して罪が赦されるとき、わたしたちはまさに罪に死んで新しいのちに生まれ変わることができるのです。また、同時に心がいやされる体験です。それは、今日の福音が伝える罪深い(つみぶか)女が、見事に示しています。

  イエスがファリサイ派のシモンの家で食事の席に着いておられたときです。町でも評判の一人の罪深い女が、イエスがその家におられるのを知って、香油(こうゆ)を持って来て、後ろ(うし)からイエスの足もとに近寄ります(ちかよ)。そして、まさに悔い改めの涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して香油(こうゆ)塗ります()

  この女性のしたことをすべて受け入れてくださったイエスは、同時にこの女性のそれまでのすべての罪を赦されたのではないでしょうか。ですから、イエスは、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分る」と宣言なさったのです。

  罪が神の愛を拒む(こば)ことだとすれば、また、赦しによって改めて神の愛が注がれるのです。

  そこで、改めてイエスは、この女性に対して宣言なさいました。

  「あなたの罪は赦された」と。そして、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。この女性が示したイエスに対する愛は、イエスがすべての罪を赦してくださるお方(かた)であると信じていたからにほかなりません。赦しは神が与えてくださることができると信じていたので、イエスに迎え入れられたときにすでにすべての罪は赦されたのです。また、イエスが改めて罪の赦しを宣言なさったのは、彼女に救いを確信させるためです。

  さらに「あなたの信仰があなたを救った」とは、まさに赦しの恵みによって信仰のいのちに生かされるようになったということです。

  最後に、わたしたちは洗礼の恵みによって罪が赦され新しいいのちに生まれ変わることが出来たことを、次のようなパウロの言葉によって確認したいと思います。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ(ほうむ)、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父(おんちち)の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです。・・・わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された(からだ)が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。・・・このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と(ローマの信徒への手紙64節〜6節)。

キリストの聖体・C年(10.6.6

「これをわたしの記念として行いなさい」

記念として行いなさい 

  今日(きょう)の第二朗読は、感謝の祭儀(エウカリスティア)すなわちミサの制定についての最も古い記録を伝えています。つまり、パウロが、すでに初代教会に伝えられていた伝承を、この手紙に取り入れたと考えられます。ですから、そのことを「わたし自身、主から受けたのです」と書いているのです。

  しかも、このミサの制定は、イエスが弟子たちとなさった過越祭の最後の晩さんの席上でのことであったと、それぞれの福音書が伝えています(マタイ26.26-30;マルコ14.22-26)。ただ、ヨハネだけは、イエスが十字架上で「過越の小羊として屠られた(ほふ)」(コリント一5.7)のは、エルサレムの神殿で祭司たちによって小羊が一斉に(いっせい)屠られる(ほふ)同時刻であったことを強調するために、最後の晩さんは、「過越祭の前のことである」(ヨハネ福音書13.1参照)と断って(ことわ)います。

  では、なぜ、最後の晩さんが過越祭の食事だったのでしょうか。それは、聖書の伝統に基づいて(もと)、イエスこそが旧約時代から祝われていた三大祭りの一つ(ひとつ)である過越祭を、(おん)自ら(みずか)死からいのちへと過越すための<いけにえ>の小羊となって完成したと理解しているからです。

  ですから、教会はミサの叙唱で次のように祈ります。

  「わたしたちの過越キリストは、世の罪を取り除かれまことの<いけにえ>の小羊、ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになりました」と(「復活の(じょ)唱一(しょういち))。

  では、ミサにはなぜ、パンとぶどう酒が必要なのでしょうか。実は、祭壇に用意されたこの供えものであるパンとぶどう酒に対して、次のように祈ります。「あなたにささげるこの供えものを、聖霊によってとうといものにしてください。御子(おんこ)わたしたちの主イエス・キリストの (おん)からだと御血(おんち)になりますように」と(第三奉献文)。

  実は、ヨハネ福音書によれば、パンの奇跡の(あと)、イエスはご自分をいのちのパンと血として、わたしたちに与えてくださることを、次のように宣言なさいました。

  「わたしは、天から降って(くだ)来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。・・・・アーメン、わたしは言う。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内にいのちはない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを()、わたしはその人を終わりの日に復活せる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」と(ヨハネ福音書6.51-55)。イエスの(おん)からだ(おん)()は、わたしたちの信仰のいのちの(まこと)(かて)なのです。ですから、次のように祈ります。「御子(おんこ)キリストの(おん)からだと御血(おんち)によってわたしたちが養われ、その聖霊に満たされて、キリストのうちにあって一つ(ひと)からだ、一つ(ひと)心となりますように」と(第三奉献文)。

  また、このパンとぶどう酒は、神の創造の(わざ)のすばらしさを表すしるしであります。ですから、奉納で次のように祈ります。「神よ、あなたは万物(ばんぶつ)造り(つく)(ぬし)、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの(かて)となるものです」と。皆さんが、聖堂の入口のテーブルの上にある(うつわ)に入れたパンと献金は、まさにそれぞれの一周間の働きと生活のしるしにほかなりません。したがって、ミサにおいて、パンとぶどう酒の(かたち)でご自分を御父(おんちち)に奉献なさるイエス・キリストと共に、わたしたちも自分自身をささげることができるのです。

  また、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と、イエスは弟子たちにくりかえし命じられました。しかも、「主が来られるときまで」つまり世の終わりまで続けるのです。ここで言われる「記念する」とは、典礼を行うことであり、最後の晩さんにおける最初のミサを、現在化すること、まさに今、現に実現している過越の神秘にわたしたちが、あずかることができるという意味です。 

教会のいのちの源泉であり頂点であるミサ

ところで、第二ヴァチカン公会議が最初に取り組んだのが典礼改革でしたが、その結果、典礼がいかに大切かを、次のように宣言しました。「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る泉である」と(『典礼憲章』10項)。したがって、典礼の中心であるミサは、「キリスト教生活全体の泉であり頂点」となるのです。ですから、(ほか)秘跡も、また教会のさまざまな役務(えきむ)も使徒職活動もすべてミサを目指しています。そして、またミサから力が十分に与えられるのです。

  したがって、充実したミサこそが、教会を育てると同時に、あらゆる教会活動を実り(みの)豊かなものとするのです。

また、ミサを、特に教会の宣教活動の到達点、そして同時に出発点にしなければなりません。実は、1975128日に発布(はっぷ)された教皇パウロ六世の『使徒的勧告・現代世界の福音化』は、教会の福音宣教の使命について、次のように強調しています。

「福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く基づく(もと)最も特有の恵みであり、召命です。教会はまさに福音を()べ伝えるために存在しています。・・・

教会にとって福音を()べ伝えるとは、<よい知らせ>を人類のすべての階層にもたらし、『わたしは万物を新しくする』とあるように、固有の力で人類を内部から変化させ、新しくするという意味です。しかし、最初に洗礼を受け、福音に従った生き方によって新たにされた人々がいなければ、新しい人類は生まれません。ですから、福音化の目的は明らかに、この内的変化です」と(1418項)。

  ミサに参加していただいた恵みは、まずそれぞれの家庭で分かち合うことです。また、久しくミサに参加していない信者さんたちとも、分かち合うことができればやがてミサにも参加するようになるかもしれません。とにかく、ミサこそはわたしたちの共同体の交わりと一致を強める源泉であります。

  そして、ミサの派遣でまず各家庭に派遣され、家族にミサの恵みを分かち合うことが大切です。つまり、福音宣教の出発点は先ず家庭からではないでしょうか。このように、家庭が宣教と信仰教育の土台になることが、教会全体を力強く育てていくまさに原点とならなければなりません。

  最後に、教皇ヨハネ・パウロ二世の勧め(すす)のことばを紹介したいと思います。

  「キリスト者の家庭もまた、『家庭教会』として、信仰養成のための自然で、基本的な<まなびや>と言えます。・・・子どもたちは、最初のことばを覚えるときに、神を賛美することも覚え、自分たちを愛してくださる父である神を身近に感じとります。・・・まことのキリスト教的な家庭の日常生活自体が、最初の<教会体験>となります。これは、子どもたちがより大きな教会共同体や市民社会に積極的に関わり、責任をもつために強められ、成長していくことを目指しています」と。(『教皇ヨハネ・パウロ二世、使徒的勧告信徒の召命と使命』62項)。

三位一体の主日・C年(10.5.30

「父と子と聖霊の御名(みな)によって」

三位一体の主日の由来 

  今日(きょう)の祭日の由来は、中世にさかのぼりますが、典礼においては三位一体を祝う「叙唱」がすでに八世紀の(なか)ごろの典礼書に見出すことができます。ですから、十一世紀ごろには三位一体への特別な祭日が祝われていたようです。

  実は、先週わたしたちは五十日間にわたって祝った「復活節」を「聖霊降臨の主日」で完成させたばかりですが、本日改めて、父である神が御子(おんこ)をこの世にお遣わしになり、さらに聖霊をも注いてくださった神の救いのみ(わざ)を、全世界の教会と心を一つにして共に祝うのであります。 

神はその独り子をお与えになった 

  まず、御父が、なぜ、この世に御子(おんこ)を派遣なさったのか、ヨハネ福音書では次のように説明されています。

  「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。神が御子(おんこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子(おんこ)によって世が救われるためである」と(ヨハネ福音書316節〜17節)。とにかく、ヨハネは、独り子のこの世への派遣は、御父の愛の派遣であることを強調しています。ですから、わたしたちも互いに愛し合うべきなのです。そのことを、ヨハネの手紙は、次のように説明しています。

  「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う(つぐな)<いけにえ>として、御子(おんこ)をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と(ヨハネの手紙4.10-11(いち))。

ところで、この独り子こそが、すでに旧約時代からのメシア預言を見事に成就なさったことは、天使の羊飼いたちへのお告げで確認されました。「畏れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日(きょう)ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と(ルカ福音書2.10-11)。

  さらに、ヨハネは独り子イエスが、御父と一緒にわたしたちのただ中に住んでくださることを、約束なさったと伝えています。

  「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」と(ヨハネ福音書14.23)。

  ですから、わたしたちのところに御父と御子(おんこ)が住んでくださる条件は、わたしたちがイエスのおことばを守るかどうかにかかっているのです。 

聖霊がことごとく悟らせる 

  さらに、イエスは、最後の晩さんの席上で聖霊を派遣してくださることをくりかえし約束なさいました。

  「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この(かた)は真理の霊である。・・・父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。・・・真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と(ヨハネ福音書14.16-17;26;16.13)。

  イエスのおことばを悟るために、聖霊が導き教えてくださるのです。したがって、まさに父と子と聖霊が一緒にわたしたちのところに住んでくださることが見事に実現するのです。しかも、日々、わたしたちと共に祈ってくださるのは、聖霊にほかなりません。このことを、パウロははっきりと教えてくれます。

  「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自ら(みずか)が、言葉に表せない(あらわ)うめきをもって執り成して(とりなして)くださるからです」と(ローマの信徒への手紙8.26)。

  日々、聖霊と共に祈ることの大切さを、再確認し実行いたしましょう。 

派遣されているわたしたち

ところで、第二ヴァチカン公会議は、教会が本来的に宣教共同体であることを、次のように再確認しました。

  「旅する教会は、その本質からして、宣教者である。なぜなら教会は、父なる神の計画による子の派遣と聖霊の派遣とにその起源があるからである」(『宣教活動教令』2項)。つまり、御父が、独り子イエス・キリストをこの世に派遣され、さらに御子(おんこ)によって聖霊を派遣されたことによって、教会が誕生したのです。

  ですから、教会のこの世における使命も明らかです。復活のイエスは、天に昇られる(のぼ)直前、弟子たちに命令なさいました。

  「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と(マタイ福音書28.18)。

  さらに、マルコは、イエスが共に働いてくださることを、強調しています。

  「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それの伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と(マルコ福音書16.20)。

ですから、教会こそ、父と子と聖霊によってこの世に派遣された宣教共同体にほかなりません。この派遣こそが、教会の本来の姿です。したがって、決して内輪向きの閉鎖集団になってはなりません。

  ちなみに、ミサこそ宣教活動の出発点であり、同時に到達点であります。なぜなら、「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る泉である」からです(『典礼憲章』10項)。ですから、ミサの最後には、派遣の祝福で各自がそれぞれの場に福音を告げ知らせるために遣わされて行くのです。そして、また次の主日になれば、一周間の働きをミサで奉献するのです。

  最後に、信仰が特に子どもや()世代(せだい)にしっかり伝わっていくために、わたしたちに課せられたこの派遣の責務を忠実に実行することの大切さを、パウロは次のように強調しています。

  「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。ところで、信じたことのない(かた)を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない(かた)を、どうして信じられよう。また、()べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして()べ伝えることができよう。・・・実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです」(ローマの信徒への手紙10.13-17

三位一体 アルブレヒト・デューラー

聖霊降臨の主日(10.5.23C

「聖霊に満たされて」

復活節の完成と教会の誕生 

  わたしたちは、「復活の主日」から今日まで、50日間主の復活を祝い続けて来ました。それは、「大いなる主日」として、まさに一つの祝日であると教会が、受け止めているからにほかなりません。ですから、復活のローソクも、このミサ後(みさご)(集会祭儀後)、片付けます。このように、「聖霊降臨の主日」によって復活節は完成されるのです。また、教会は、伝統的に今日の第一朗読で語られている聖霊降臨の出来事を、教会の誕生として受け止めて来ました。なぜなら、聖母マリアを中心にエルサレムで集まっていた弟子たちに聖霊が注がれたことによって、ユダヤ人を恐れて隠れていた彼らは、キリストにおける救いの出来事つまり福音をすべての人々に大胆に勇気を語り始めたからです。ですから、聖霊降臨の出来事がまさに教会の歴史の出発点になったのです。 

旧約聖書が描く神の霊の働き

では、手始めに旧約聖書に登場する神の霊の働きについて少し振り返ってみましょう。実は、聖書の最初の書物である『創世記』の冒頭に次のようなくだりがあります。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵(しんえん)(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた」と(創世記1.1-2節)。美しい秩序と調和を造り出す創造主なる神の偉大な創造の(わざ)の開始直前に、実は、スタンバイしていた神の創造の力が聖霊にほかなりません。ですから、最初の人間アダムは、神によって直接、鼻に命の息すなわち神の霊を吹き入れられたので、生きる者となったのです(創世記27節参照)。まさに神の霊は、いのちの(みなもと)なのです。ですから、詩編においても、神の息吹としての霊の働きを次のように描いています。「御顔(おかお)を隠されれば彼らは恐れ 息吹(いぶき)を取り上げられれば彼らは息絶え(いきた) 元の(ちり)に返る。あなたはご自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる」と(詩編104.29-30節)。

  さらに、全世界の救いが完成するとき聖霊がすべての人々に注がれるという次のような預言があります。「その後(のち) わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は(まぼろし)を見る。その日、わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」と(ヨエル書31-2節)。 

イエスに聖霊が降る

ところで、共観福音書は、こぞってイエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときにイエスに聖霊が降ったと報告していますが、マルコ福音書は、その情景を次のように描いています。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がる()とすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のようにご自分に降ってくるのを、ご覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う(かな)者」という声が、天から聞こえた』」と(マルコ福音書1.9-11節)。それ以来、イエスの神の国のための活動は、まさに聖霊による働きとなったのです。ですから、イエスは次のように確認なさいます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と(マタイ福音書1228節)。 

復活のイエスは、弟子たちに聖霊を約束された

そして、今日の福音が語るように、イエスは弟子たちに聖霊を遣わしてくださることを、実は、最後の晩さんの席上でなんと五回にわたって約束なさいました(ヨハネ福音書14.16-1714.2615.26-2716.7b-1116.12-15)。そこで、聖霊の(おも)な役割について説明なさいました。まず、聖霊は「弁護者」あるいは「真理の霊」とも呼ばれます。「弁護者」という呼び名は、第五回目の約束を除く(ほか)のすべての箇所で使われており、実は「ヨハネの手紙一」(2.1)ではイエスご自身がこの()で呼ばれています。この「弁護者」とは、「助けるために(そば)に呼び寄せられた者」という意味なので、苦しみ悩む者の側にいるときにはまさに「慰め主」とも呼ばれます。とにかく、聖霊はいつもわたしたちと共にいでくだるだけではなく(ヨハネ福音書14.17参照)、すべてのことを教えてくださり、さらにイエスのお言葉をことごとく思い起こさせてくださるのです(同上14.26参照)。ですから、この聖霊こそが、わたしたちを導いて真理をすべて悟らせてくださるのです(同上16.13参照。

   このように、聖霊は、わたしたちが、信仰を生きて行くためになくてはならない照らしと導きを与えたくださる(かた)にほかなりません

聖霊を注がれ派遣される

  ところで、本日、祝う聖霊降臨は、ユダヤ教の伝統に基づいてイエスの復活後の50日目の五旬祭当日の出来事です。実は、この五旬祭は、ユダヤ教の三大祭りの一つで、毎年、春に祝われる「麦の収穫祭」で、旧約では「週の祭り」または「七週(ななしゅう)(さい)」とも呼ばれていました。それは、これまた三大祭りの一つである「過越祭」から数えて50日目に当たるので、「()(しゅん)祭」と言われるようになったのです。ですから、この祭りには、大勢の巡礼者たちがエルサレムに集まって来たのです。

また、今日(きょう)の第一朗読は、ルカが書いたと思われる『信徒言行録』からとられていますが、「()(しゅん)祭」の日にエルサレムで起きた出来事を、ものものしく描いています。まず「一同が一つなって集まっていると」と、聖母マリアを中心に弟子たちが心を一つにして集まっていたことを強調します。なぜなら聖霊こそが、一致を生み出してくださるからです。そこで、「突然、激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」のです。特にヘブライ語では、霊を表す言葉は、風や火、そして息をも意味します。ですから、ここでは、まず、激しい「風」が大きな物音を立てたと描写しています。次に、「炎」として今度は、一人ひとりの上に降った(くだ)のです。しかも、「舌」の形で与えられたということは、聖霊によって信仰を言葉で証しできることを暗示しているのではないでしょうか。ですから、聖霊に満たされた弟子たちは、大胆にもそれぞれ(ほか)の国の言葉で神の偉大な救い画像をクリックするとウィンドウを閉じますのみ(わざ)を語り始めたのです。このように聖霊を注がれた教会は、最初から福音を証しするために世界に向けて派遣された宣教共同体なのです。ですから、ヨハネは、復活させられたイエスが、最初に弟子たちのところに現れたときに、聖霊を注がれと伝えています。それは、弟子たちを全世界に向けて派遣するために、聖霊を弟子たちに吹き込まれたからです。そのことを、次のように描いています。

「『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた(がた)を遣わす。』そう言ってから、彼らの息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」と(ヨハネ福音書20.21-22)。

わたしたちも、このミサの終わりにそれぞれ福音を()べ伝えるために派遣されます。それは、既に洗礼を受けたときに聖霊を注がれているからです。日々、聖霊に満たされて、福音をできるだけ多くの人々に伝えゆくことができるように共に祈りたいと思います。

主の昇天・C年(10.5.16

「わたしたち教会の使命とは」

主の昇天の祝日の由来 

   本日、わたしたちは全世界の教会と心を一つにして、「主の昇天」を祝います。けれども、初期のキリスト教会には、「キリスト昇天」という特別に独立した祝日はありませんでした。なぜなら、キリストが「天に上げられる」ことがまさにイエスの復活なので、イエスの昇天は、そもそも「復活の主日」と密接に結びついたからです。ですから、初期のエルサレムの昇天教会では、復活の主日から50日目に、つまり「復活節」を締めくくる日に、「聖霊降臨」と「キリストの昇天」を同時に記念していました。ところが、4世紀になって初めて、「復活の主日」から数えてちょうど40日に、キリストの昇天を、本日のように独自に祝うようになりました。 

今日の聖書朗読 

ところで、今日の第一朗読はルカが「使徒言行録」において伝える主の昇天の出来事、そして、福音はルカによるイエスが天に昇られる前に弟子たちところに現れ、聖霊を受けるまで(みやこ)エルサレムにとどまるように命じられたことを伝えています。その後(あと)に弟子たちをベタニアのあたりまで連れて行き、彼らを祝福しながら天に上げられたのです。ですから「イエスはなぜ天に上げられたのか」が、今週の聖書朗読のテーマになっています。

では、まず今日の福音を見てみましょう。ここでは、復活させられたイエスが、弟子たちのところに現れ、弟子たちにとって最も大切な使命を、次にように命じられます。

  「聖書には、次のように書いてある。『罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と。父なる神が、イエスを死者の中から起き上がらせたことによってわたしたちの罪が赦されます。つまり、わたしたちが悔い改めるよりも前に、神がまずわたしたちの罪を吹き払い、神へ立ち帰るように呼びかけておられるのです。

  ですから、この神へ立ち帰る呼びかけを証しすることがわたしたちの使命なのです。しかも、それをわたしたちだけで行うのではありません。イエスが送ってくださる「父の約束されたもの・・・高い所からの力」、つまり聖霊が共に働いてくださる聖霊と共に行うのです。

  ここで、イエスが手を上げられたのは、祝福のためですが、これは祈る姿勢にもなります。イエスの手が天と地を合せる結び目となります。イエスが弟子たちを祝福しながら、天へと上げられてゆくのを目撃した弟子たちは、その姿を「伏し拝み」、「大喜びで」エルサレムに帰ります。 

天に上げられるイエス 

   さらに、『使徒言行録』からとられた今日の第一朗読は、イエスの復活と昇天と詳しく描いています。ちなみに、この『使徒言行録』の著者であるルカが書いた今日の『福音書』においては、イエスの昇天を語る今日の箇所が、その福音の結びとなっています。

   また、第一朗読では、復活させられたイエスに向かって、弟子たちが尋ねます。「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と。まだ、「イスラエル」という地域に固執し、また「この時」という一定の時代にも拘って(こだわ)います。それに対して、イエスは、まさに「神の国」は、「イスラエル」という空間をはるかに越えて「地の果て」にまで広がるだけでなく、それが実現する「時や時期」は、弟子たちが到底把握できない、神の遠大な計画にあることを強調なさいます。ですから、弟子たち、つまりわたしたちに求められているのは、この神の国がいつ完成するのかを詮索(せんさく)することではなく、まさに神の国の完成のために働き神の偉大なみ(わざ)証人(あかしびと)になることなのです。

   ですから、復活のイエスは、弟子たちに「聖霊による洗礼」を約束し、「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と励ましてくださいます。ルカによれば、実はイエスご自身もガリラヤでの宣教に始めるに当たって聖霊を受けておられます(ルカ3.21-22参照)。したがって、わたしたちもイエスの死と復活の証人になるためには、どうして聖霊の助けが必要なのです。つまり、宣教とは神ご自身が御子を聖霊において派遣なさった業に参加することだからです(『宣教活動に関する教令』2項参照)。つまり、御父による御子の派遣そして聖霊の派遣にわたしたちも参加することが、宣教活動にほかなりません。

   そこで、イエスが上げられていった天を呆然(ぼうぜん)と見つめていた弟子たちに「白い服を着た二人の人」が現れ、「なぜ天を見上げて立っているのか」と問い掛け、「イエスは必ずまた戻って来られる」と励まします。つまり、イエスが栄光に包まれて再び来られる再臨の約束はまさに確かなことなのです。ですから、わたしたちも、ただ天を見上げてじっと立ち止まっているのではなく、与えられた尊い使命を忠実に遂行するために聖霊の力強い助けによってその使命に専念しなければなりません。なぜなら、まさに救いの歴史は、「イエスの時代」から聖霊によって福音を宣教する「教会の時代」へと大きく移行したからであります。 

共に働いてくださる復活のイエス 

   ところで、聖書において「山」は、神と出会うための特別の場所という象徴的な意味がありますが、マタイの福音においても、イエスが天に昇られるに先立って11人の弟子たちも山に登るように指示なさいました。実は、マルコは、弟子たちの中には「疑う者もいた」とあからさまに報告します。この「疑う」ということですが、もともとは「二つに分かれる」を意味します。ですから、山でイエスにお会いし、思わずひれ伏した弟子たちに、イエスのほうから彼らに近づかれます。つまり、疑いを乗り越えた弟子ではなく、まだ疑いを抱いている不完全な者に近寄ってくださり、力強く語り掛けてくださるのです。まさに、このイエスのことばによって、初めて弟子たちは自分たちの疑いから確信へと乗り越えることができたのではないですか。

   ちなみに、マルコは今日の出来事を、次のように締めくくっています。「主イエスは、弟子たちに話した(にち)、天に上げられ、神の右の座につかれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と(マルコ16.19-20)。

  全世界の教会と心を一つにして祝う主の昇天こそ、わたしたちがこの世界の只中で、イエスが命じられた福音を人々に告げ知らせる大切な使命を改めて確認させ、その使命の遂行のために祈る祝日にほかなりません。

主の昇天

復活節第6主日・C年(10.5.9

 「聖霊を待ち望む」

旧約時代の神の霊 

  いよいよ復活節の終わりに近づきました。ですから、特に聖霊降臨の主日を二週間後に控え(ひか)今日(きょう)、また改めて聖霊の働きについて確認し、教会に聖霊の恵みが豊かに注がれるように祈らなければなりません。

  実は、聖霊がわたしたちに与えられることは、すでに旧約時代から預言されています。たとえば、紀元前5世紀ごろに書かれた『ヨエル書』に次のようなくだりがあります。

  「その後(のち) わたしはすべての人たちに霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」と(ヨエル書31節〜2節)

  このように、性別、年齢、身分の違いを超えて、まさにすべての人々に神の霊が注がれるのです。ただ、旧約聖書では、まだ聖霊という言葉は使われていません。

  さらに、紀元前6世紀の捕囚時代に活躍した預言者エゼキエルは、神の霊が注がれることを、次のように説明しています。

  「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。・・・わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。またわたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを行わせる」(エゼキエル書3625節〜2節)と。

  まさに神の霊はわたしたちを清め、掟を忠実に守ることができるように導いてくださるのです。  

イエスが約束なさった聖霊 

では、イエスが弟子たちに与えてくださると約束なさった聖霊とは、一体どんな霊なのでしょうか。

  イエスは、最後の晩さんの席上でなさった告別説教の中で初めて聖霊について次のように語られました。

  「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願しよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この(かた)は、真理の霊である。世は、この霊を見ようともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を

知っている。この霊があなたがたと共におり、こらからも、あなたがたの内にいるからである」と(ヨハネ福音書1415節〜17節)。ここで言われている「弁護者」は、「誰かを助けるために呼び出された助け手」を意味し、「別の」と言われるのは、実は、イエスご自身がわたしたち一人一人にとって御父のもとにおられる「弁護者」にほかならないからです(ヨハネの手紙一21節)。

  とにかく、わたしたちが洗礼を受けたとき、聖霊がわたしたち一人ひとりのところに来てくださりいつも共にいてくださるのです。

  さらに今日の福音で、イエスは聖霊の働きについて説明してくださいます。

  「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と。

  聖霊が、イエスが語ったこと、なさったことすべてを思い起こさせ納得させてくださいます。ですから、わたしたちは、イエスのおことばによって自分自身が変えられていくのです。なぜならば、イエスのことばの意味を十分に悟るとき、わたしたちは変えられるからです。つまり、イエスのおことばには、わたしたちを変える力があります。たとえば、「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、沢山の報いがあり、いと高かき方の子となる。・・・あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」というおことばを(ルカ福音書635節〜36節)、信仰をもって受け止めるなら、聖霊の働きによって、わたしたちは憐れみ深い者に変えられるのです。

また、イエスは聖霊の働きについて次のように説明なさいます。

  「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と(ヨハネ福音書1618節)。特に、神の語られるみことばを深く味わうことができるよう聖霊の照らしが必要です。 

聖霊と共に歩む教会 

ところで、今日の第一朗読は、初代教会が重大な問題を解決するため、最初の使徒会議が開かれ、そこで決定したことをアンティオキアの教会に手紙で報告したことを伝えています。

  つまり、キリスト者になるために先ずモーセの律法に従って、割礼を受けるべきかという問題を解決するために使徒会議が招集されたのでした。そこで、議論を重ねた(あと)、ペトロが次のような決定的な発言をします。

  「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音のことばを聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした」と(使徒言行録157節〜9節)。

  そして、この手紙の最後に「聖霊とわたしたちは、決めました」とはっきり書かれているとおり、教会はいつも聖霊と共に歩まなければならないことが確認できます。

  ですから、1962年から1965年の四年間にわたって開かれた第二ヴァチカン公会義の開催を決定なさった教皇ヨハネ23世は、この公会議がまさに新しい聖霊降臨の恵みになることを強調なさいました。

したがって、この公会議が決定した、四つ憲章、九つの教令、三つの宣言の最後には、次のような教皇の文言か荘厳に書かれています。

  「この教令の中で布告されたこれらすべてのこと、その個々のことは、諸教父の賛同したことである。わたくしもキリストからわたくしに授けられた使徒的権能をもって、尊敬に値する諸教父と共に、この教令を聖霊において承認し、決定し、制定し、このような教会会議によって制定されたことが神の栄光のために公布されるように命じる」と。

  このように、わたしたちの教会の今年度のあらゆる活動は、聖霊と共に決定し、聖霊と共に実行することが肝心です。

わたしたちの共同体の上に聖霊の導きと力強い助けが豊かに与えられるように共に祈りたいと思います。

復活節第5主日・C年(10.5.2

「見よ、わたしは万物を新しくする」

新しい天と地を見た

  キリストの復活を祝い続ける復活節は、いよいよ後半に入りましたが、特に今日の第二朗読で、復活の栄光に輝く救いの完成の荘厳な姿を垣間見る(かいま)ことができます。この箇所は、既に迫害を受けていたヨハネの共同体の中で書かれたと考えられます。つまり、一世紀末、当時の世界を制覇していたローマ帝国の皇帝ドミティアヌス(81-96年)が、自ら「(しゅ)にして神」と呼び、皇帝を神として礼拝するようキリスト教徒にも厳しく要求したのでした。ですから、この命令に従わないキリスト教徒は、殉教を選びました。

  このような迫害の時代に、キリスト教徒にとってこの『ヨハネの黙示録』は、信仰を守りぬくための心強い励みとなったのです。特に今日の箇所は、救いの完成の荘厳な情景を、描いていますので、パウロのような心境に達することができたのではないでしょうか。つまり、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないと思います」と(ローマの信徒への手紙818節)。

  では、今日の箇所を、読み返し、少し説明したいと思います。

  「わたし[ヨハネ]は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」と。

  この段落は、まさに救いが完成するとき、全宇宙が全面的に刷新されることを描いているのです。ここで言われている「最初の天と最初の地」とは、わたしたちが今体験している天地のことです。神によって始められた救いの歴史は、今完成に到達し、新しい創造が実現するのです。「もはや海もなくなった」という海は、初めに天と地が創造されたとき、「闇が深い淵の(おもて)にあり、神の霊が水の(おもて)を動いていた」という創世記の冒頭のくだりとつながり、悪魔の座を象徴しています。

  ですから、今こそ、神が本来望んでおられた世界、悪が存在せず、想像の及ぶ限りの善が無限に満ちあふれる世界が実現しつつあるというのです。

  そして「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」のです。

  神に愛された町は、ここではエルサレムと呼ばれており、「聖なる都」なのです。この「聖なる都」は、天から、すなわち神のもとから下って来るのです。

  ですから、この都こそ、神のご計画に従い、神に似たものなのでしょうか。とにかく、天にとどまっていないで、自分と同じように新しくされた地に下って来るのです。そこで、ヨハネは、天の玉座(ぎょくざ)から荘厳な声を聞きました。

  「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」と。さらに、決定的な神の宣言を聞きます。

  「見よ、わたしは万物を新しくする」と。

  救いの完成は、天地万物が全面的に刷新される出来事なのです。

  ですから、この救いの完成を目指して旅する教会は、絶えず刷新される信仰の旅を続けるのです。

あなたがたに新しい掟を与える

  次に、今日の福音は、イエスが最後の晩さんの席上でなさった告別説教の始まりの箇所を伝えています。

  イエスは弟子たちから離れ、父のもとへ過越して行かれるのですが、唐突(とうとつ)にも「今や、人の子は栄光を受けた」と語り始められました。さらに、「神も人の子によって栄光をお受けになった」と。イエスの受難によって、神からは人の子に栄光が与えられ、また、人の子によって神の栄光が輝くのです。まさに、十字架と復活による栄光であり、天へ帰られる栄光なのです。実は、この栄光については、すでにイエスは、次のように宣言なさいました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と(ヨハネ福音書1232節)。つまり、イエスが十字架の上に上げられるとき、すべての人がイエスのもとに引き寄せられるのです。しかも、同時に復活させられる、つまり地上から上げられるのです。まさに、十字架と復活によって現される神の栄光にほかなりません。

  さらに、イエスは、また、その説教の中で「新しい掟」を与えてくださいました。

  「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。

    既に、旧約時代からあった愛の掟が、イエスによって新しくされたのです。なぜなら、救いの完成は、万物が全面的に新しくされることだからです。ですから、イエスに倣う愛の実践はこの「万物を新しくする」にすべてつながっていくのです。つまり、イエスが救い歴史を完成させてくださるのですが、そのイエスに倣う愛の実践が、世の終わりに実現する「万物を新しくする」ことにすべて統合されて行くからです。ですから、救いの完成は、イエスを中心にすべてのものが一つにまとまられることにほかなりません。そのことを、パウロは次のように描いています。

    「こうして、ときが満ちるに及んで、救いの(わざ)が完成され、あらゆるものが、(かしら)であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリスのもとに一つにまとめられるのです」と(エフェソの信徒への手紙110節)。

  続いて、同じ説教の中でイエスは、この愛の実践こそが、イエスの弟子であることの条件であると強調なさいます。

  「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と。

  ちなみに、最初にキリスト者と呼ばれるようになったのは、80年代のアンティオキアの弟子たちですが(使徒言行録1226節参照)、まさにキリストに倣ってこの新しい愛の掟を実践していたからではなないでしょうか。

  ですから、教会こそ愛の共同体です。したがって、パウロは、教会が愛によって成長しなければならないことを、次のように勧めてくれます。

  「こうして、聖なる者たちは奉仕の(わざ)に適した者とされ、キリストのからだを造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。・・・愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で(かしら)であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、からだ全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は(ぶん)に応じて働いてからだ全体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」と(エフェソの信徒への手紙412節〜16節)。わたしたちの共同体が、愛の実践によって成長できるように共に祈りたいと思います。

復活節第4主日(世界召命祈願の日)・C年(10.4.25

「弟子たちは、喜びと聖霊に満たされていた」

キリスト者の生き方の基本は典礼の暦 

  今年も、聖週間で始まった復活祭の典礼は、「聖なる過越の三日間」によって、まさに頂点に達しました。そもそも、第二ヴァチカン公会議が最初に取り組んだのは、教会全体にとってだけでなく信者一人ひとりが、信仰を生きるために最も大切が源泉は典礼にあることを、確認したからでした。ですから、教会の典礼の生活を、信者の日常生活に結び付けなければなりません。そうしないと、信仰が生活から、離れてしまうのではないでしょうか。したがって、具体的には世間一般で使っているカレンダーとは、別に『教会のカレンダー』に従ったキリスト者の生活のリズムをしっかり、生活に組み込むことが肝心です。たとえば、今日は、日曜日だからミサに行く日だというだけでなく、『典礼暦(てんれいれき)による典礼の季節の確認が必要です。なぜなら、信仰生活は、年間を通してキリストの救いの出来事により豊かにあずかる生き方だからです。

  ですから、すでに44日の『復活の主日』で始まり、523日の『聖霊降臨の主日』までの50日間を、あたかも一日の祝祭日(しゅくさいじつ)として『復活節』を祝い続けているのです。したがって、この間、キリストの復活のろうそくはともし続けます。また、今日の第一朗読でルカが伝えているように初代教会は、すでに異邦人と共に主の復活をたたえる喜びの賛美に満たされていたのです。

  「見なさい、わたしたちは異邦人のほうに行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』非邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠のいのちを得るように定められていた人は皆、信仰に入った。こうして、主のことばはその地方全体に広まった」。

  主の復活を祝っているわたしたちの教会は、初代教会に倣ってどのように一人でも多くの人たちに、このすばらしいキリストの復活を告げ知らせることができるのでしょうか。それは、日々の人と人との出会いの中で、関わりの中で、さりげなく自然体でキリストを伝えていくことから始めることかも知れません。

  つまり、わたしたちのただ中に復活のキリストが共にいてくださるなら、キリストの復活という喜ばしい知らせ、つまり福音を出会う人たちと分かち合うようになれるのではないでしょうか。それは、聖霊がわたしたち一人一人をそして共同体全体を導き支えておられるからできることなのです 

いのパンといのちのことばに養われて 

  ところで、わたしたちの教会活動も新しい年度に入りましたが、そのため、また改めて目標を設定しなければなりません。具体的には、来月開かれる「教会総会」で決定しなければなりませんが、その基本方針こそは、教会の本来的使命を果たして行くことにほかならないことを、まず確認したいと思います。

 今日の福音で、イエスは明らかに宣言なさいました。

  「わたしは彼らに永遠のことばを与える」と。

  わたしたちが、主日ごとに心を一つにして全世界の教会と共にささげるミサこそが、教会活動のあらゆる力が流れ出る源泉です。ミサの「ことばの典礼」で、旧約時代からの神の救いの偉大な(わざ)を、記念し、賛美します。このすでに起こった出来事を思い起こし、記念するとき、すでに与えられたものと全く同じ恵みがまさに今のわたしたちも与えられるのです。

  たとえば、『出エジプト記』の一部が朗読され記念されるとき、すでに起こった神による罪からの解放が、この朗読を聞く人にそのまますべて与えられるのです。また、イエスがサマリアの女に「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の(うち)で泉となり、永遠のいのちに至る水がわき出る」(ヨハネ福音414節)と語られた同じイエスのことばを聞くことによって、サマリアの女性に実現したことが、今、またそのまま実現するというまさに典礼の神秘の豊かさであります、ですから、教会は、この典礼からあらゆる力を受けて、特に福音を伝えて行くために地の果てまでにも出かけて行くことが出来るのです。

  つまり、教会は現状を維持する内輪向きの閉鎖集団になってしまってはなりません。なぜなら、教会は、このすばらしい「いのちのことば」によってだけでなく、さらに豊かな「いのちのパン」によって養われ、強められることによって、救いを待ち望んでいる人々のもとに派遣されている宣教共同体だからです。

全世界に行って、福音を()べ伝えなさい 

  ですから、わたしたちは、まず父なる神によって招かれ、呼び集められ礼拝共同体を実現させます。そして、ミサを共にささげることによって、教会活動に必要なあらゆる力が流れ出る源泉が湧き出ます。そこで、ミサの終わりには、全世界に向けて福音をたずさえて派遣されて行きます。したがって、マルコは、教会の本来の姿と使命について次のように報告しています。

  「主イエスは、弟子たちに話した(のち)、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方弟子たちは、出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らのことばが真実であることを、それに伴うしるしとことばによってはっきりとお示しになった」と(マルコ福音書1619節)。

  今日は、また「世界召命祈願の日」です。実は、わたしたちはすでに洗礼によってイエスに結ばれたので、キリスト者としても召命を受けました。キリストの唯一の祭司職、預言職、そして王職にあずかることが、わたしたちキリスト者の共通の召命です。さらに、この基本的召命に加えて、司祭職や修道生活への召命も教会に与えられます。

  ですから、神の国の完成を目指して、教会に託された使命を忠実に遂行することができるために、大勢の若者たちがこの特別な召命に招かれています。そして、これら大切な召命を育む(はぐく)()、それぞれの信者の家庭にほかなりません。

  主は、わたしたち一人に最もふさわしい召命を与えてくださいます。それに、生涯かけて忠実にこたえて行くことができるように共に祈りたいと思います

マタイの召命(カラバッチオ)

復活節第3主日・C年(10.4.18

「教会のただ中におられる復活のキリスト」

復活のキリストを告げ知らせる

今日の福音は、復活のイエスが、弟子たちのところに三度目に現れてくださったのは、ティベリアス湖の岸辺であったと報告しています。一度目のときも、二度目のときも、ユダヤ人を恐れて家のあらゆる戸にしっかり鍵をかけて隠れていた弟子でした。けれども、今回は、湖に漁をするために出かけて来ていたのです。とにかく、彼らはもともと漁師だったのですから、また、以前の生活に戻ったとも考えられます。確かに、復活のイエスが、最初に弟子たちのところに現れてくださったとき聖霊を吹き込まれ、派遣されたはずだったのですが、彼らには、直ちに復活のイエスを、人々に伝えるために宣教に出かけて行く勇気がなかったのでしょうか。

  実は、福音記者ルカによれば、ペトロが初めてイエスお会いしたのは、同じ湖で夜通し漁をしていたときです。ペトロが漁をして一匹も獲れなかったとき、イエスにいきなり「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じられたのです。それに対して、ペトロは答えました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。そこで、まさに奇跡的な大漁を体験したのです。このイエスのお言葉の力に打ちのめされたペトロは、思わず「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白します。ところが、イエスは、唐突(とうとつ)にもペトロに弟子になるよう召されたのです。「恐れることはない、今から後、あなたは人間を取る漁師なる」と(ルカ福音書5 4節〜10節)。そこで、その同じ奇跡的大漁を目撃したヤコブもヨハネもペトロと一緒に、すべてを捨ててイエスに従ったのでした。それなに、なぜ、イエスの復活後には、またもとの漁師に戻ってしまったのでしょうか。

  けれども、今日の第一朗読によれば、確かに弟子たちは、すでに聖霊を注がれていたので、大胆にイエスの復活の証人として、人々のもとに出かけて行ったのです。ですから、ユダヤ社会の権力者の尋問(じんもん)にも、勇気をもって反論できたのです。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました」と。

  とにかく、主の復活を祝い続ける教会は、勇気をもって大胆にイエスの復活の出来事を、一人でも多くの人々に告げ知らせる大切な使命があります。 

賛美の共同体の力

ところで、今日の第二朗読は、先週に引き続き『ヨハネの黙示録』からとられています。ヨハネがパトモス島で見たのは、復活の栄光に輝くキリストを、大勢の天使たちが大声で荘厳に賛美している情景でした。さらに、この天使たちの声に合わせて、天と地の(した)と海にいるすべての被造物までもが、「玉座(ぎょくざ)座って(すわ)おられる方と小羊とに、賛美、誉れ、そして権力が、世々限りなくありますように」と声高らかに褒め称えて(ほめたた)いるのです

  わたしたちも、ミサを共にささげるごとに、復活のキリストを天の御父に奉献し、最高の感謝と賛美をささげます。この共同体のミサこそは、教会のすべての典礼活動の源泉です。ですから「典礼は教会が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る泉である」ことを(『典礼憲章』10項)確認しました。神によって、招かれ、呼ばれ集められた信仰共同体である教会は、何よりも神に最もふさわしい礼拝をささげる礼拝共同体にほかなりません。更に、大切なことは、ミサと日常生活を結びつけるために、家庭でも日々、祈り、聖書を開き分かち合うことです。つまり、わたしたちの信仰を、生活のただ中にしっかり根付かすことが肝心です。そのために、主日のミサに忠実に参加することによってこそ、信仰を共同体においても、家庭においても育て、強めて行けるのです。

ですから、信者一人一人にとって、典礼の中心であるミサは、信仰生活になくてはならない恵みの源泉であります。そこで、第二ヴァチカン公会議の大切な公文書『教会憲章』では、ミサの大切さを、次のように強調しています。

  「彼らは、キリスト教生活全体の泉であり頂点であるミサの<いけにえ>に参加して、神聖な<いけにえ>を神にささげ、その<いけにえ>と共に自分自身をもささげる。こうしてすべての信者は、<いけにえ>の奉献においても、・・・それぞれ固有な方法で自分自身の役割を果たす。さらに、ミサにおいてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な秘跡が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を、具体的な方法で現す」と(『教会憲章』11項)。

  ところで、どの共同体にも、久しくミサに参加していない信者さんがかなりおられますが、先ず、出来るだけお互いのつながりを回復しミサに定期的に戻って来られるように、皆なで手分けして何か働きかけができないでしょうか。 

わたしの羊の世話をしなさい

次に、今日の福音の後半は、弟子の(かしら)であるペトロの役割について、イエスが三回も命じられたことを伝えています。

  一回目は、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」とたずねられ、ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、貴方がご存じです」と答えると、「わたしの小羊を飼いなさい」と命じられました。すでに、イエスご自身が、羊飼いと羊のイメージでご自分のこの世に来られた目的を、次のように明らかにされました。「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ福音書910節〜11節)と。ですから、十字架上で屠られた過越の小羊は、イエスご自身でした(コリントの信徒への手紙57節参照)。

  二回目も、先ず、イエスは、同じようにご自分に対するペトロの愛を確認なさいます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と。それに対して、ペトロは即座に答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。そこで、イエスは命じられます。「わたしの羊の世話をしなさい」と。ところが、さらに三度目に、また、ペトロの愛を確かめます。「わたしを愛しているか」と。このように同じことを三度も念を押されてので、ペトロは情けないような悲しい気持ちがこみ上げてきたようです。ですから。思わず「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたは良く知っておられます」と。そこで、イエスは一回目と同じように「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました。まさに、教会は愛の共同体にならなければなりません。なぜなら、イエスに対する愛によってお互いを支え合い、補い合い、協力し、奉仕し合うことによって共同体として成長できるからです。したがって、教会の司牧者もこのペトロにならって、常にイエスへの愛に力づけられながら共同体に奉仕しなければならないのです。そして、愛の共同体を育てることができるのは、教会のただ中で復活のキリストが、共に働いてくださっておられるからにほかなりません。

羊飼い(ミレー)

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)・C年(10.4.11

「復活のキリストとの新たな出会い」

苦難と迫害のただ中で

今日の第二朗読は、聖書の最後の書物である『ヨハネの黙示録(もくしろく)』からとられています。しかも、その冒頭は、「イエス・キリストの黙示(もくし)。すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためにキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使たちに送って(しもべ)ヨハネにお伝えになったものである」と説明しています。ですから、この書物は、紀元前二世紀から紀元二世紀ごろにわたって栄えた黙示文学の代表作の一つと言えましょう。実は、この黙示文学というのは、神秘的なシンボルを用いて、神が歴史を導いておられることを、物語ります。ちなみに、この『ヨハネの黙示録(もくしろく)』が書かれたと思われる時代は、ユダヤが、シリアの王アンティオコス四世の支配下で激しい迫害を受けていただけでなく、ローマ帝国においては、キリスト教徒が、ローマ皇帝ドミティアヌスの治世(81-96 AD)に皇帝礼拝を強要されるという迫害を体験していました。ちょうどそのころ、70年に聖なる都エルサレムがローマの軍隊によって破壊されたので、ユダヤ人たちは亡国の民となったのですが、一方(いっぽう)ユダヤ人キリスト教徒たちは、ユダヤ教の会堂から追放され、迫害の只中で復活のキリストに従う道を選びとったのです。

  ですから、この書物は、困難と迫害を体験しているキリスト教徒を、励ますために書かれたと言えます。そこで、この著者は、「わたしは、あなたがたの兄弟であり、ともにイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神のことばとイエスのあかしのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは、“霊”に満たされていたが、後ろ(うし)のほうでラッパのように響く大声を聞いた」と。

  このように、著者はまず自己紹介をします。そして、今から語ろうとする体験は、パトモスでのことであると。この島は、ローマ帝国アジア州の首都エフェソの西方約120キロのエーゲ海に浮かぶ小島(こじま)で、当時罪人(ざいにん)たちが流された場所でした。ヨハネと名乗る著者は、「神のことばとイエスのあかしゆえに」と書いていますので、まさに彼の信仰のゆえにこの島に流されたと考えられます。しかも、彼が神からの啓示を受けたのは、主の復活を記念して信者たちが礼拝を行っていた「主の日」でした。ですから、わたしたちも初代教会から今日に至るまで、そして世の終わりまで、主の復活を記念する日として週の最初の日を「主日」と言うのです。そこで、聖霊に満たされたヨハネは、ラッパのように響く声を聞いたのです。そして、「あなたの見ていることを巻物に書いてアジア州にある七つの教会に送れ」という命令を、受けます。

  次に、その声の(にし)である人の子のような者すなわち復活の栄光に輝くキリストのお姿を荘厳に描きます。先ず、七つの金の(しょく)(だい)が見えたのですが、これらは祈っている七つの教会を表しています。さらに「人の子」が登場するのですが、十字架上での受難の(のち)復活させられ、宇宙を支配する権能を御父から委ねられた栄光のキリストを示していると思われます。しかも、この(かた)が七つの金の燭台の中央におられたというのは、復活のキリストが迫害されている教会の只中におられることを表しています。そして、そのキリストの服装は足まで届く(ころも)を着て、胸には金の帯を締めておられ、まさにユダヤの大祭司の出で立ち(いでたち)に似ていますので、新約の大祭司としてのイエスの権能を象徴していると言えます。

  このように威厳に満ちた復活のキリストこそが、迫害で苦しむキリスト教徒にその苦しみを耐え抜く勇気と希望を与えておられるのではないでしょうか。

  たとえば、1619106日、京都の鴨川のほとりで、十字架に縛り付けられ火あぶりにされたテクラが、「母上、もう何も見えません」と叫んだ娘カタリナに向かって「大丈夫、間もなく何もかもはっきりと見えて、皆会えるから」と、優しく慰めることができたのは、きっと、復活のキリストに間もなくお会いできるという確信があったからではないでしょうか。 

あなたがたを遣わす

ところで、今日の福音は、イエスが復活させられた当日、つまり週の初めの日の夕方、弟子たちに現れてくださったという感動的な出来事を伝えています。まず、そのときの弟子たちの様子を、次のように報告します。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と。罪と死に打ち勝たれ復活の勝利に輝いておられる主にまだお会いしていなかったので、イエスを十字架に架けて殺したユダヤ人たちを恐れて、隠れていたのです。ですから、すべての戸口には厳重に鍵をかけていました。したがって、そのときの弟子たちは、恐れとお互いに対する不信感や、挫折感にうずくまっていたのはないでしょうか。つまり、彼らが閉ざしていたのは、家の戸だけではなく、お互いの心も堅く閉ざしていたのではないでしょうか。そこへ、突然、復活のイエスが彼らの真ん中に来られたのです。イエスの復活の体は、鍵が掛かっている戸をもたやすく通り抜けることが出来る霊的な体なのです(コリント一、15.44参照)。そして、なによりも復活のキリストこそが、わたしたちの恐れや不安、そして思い煩いを、堅く閉ざしたわたしたちの心からすっかり取り除いてくださるのです。ですから、畏れ多くて倒れて死んだようになったヨハネに栄光に輝くキリストは、パトモス島で厳かに宣言なさったのです。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府(よみ)の鍵を持っている」と。「最初にして最後の者」つまり、復活のキリストこそすべての歴史の支配者であり、決して滅びることのない神のいのちを完全に所有し、それをわたしたちに注いてくださるお方(かた)なのです。ですから、もはや死さえご自分の支配下においておられるので、自らの復活のいのちをわたしたちに与えてくださるのです。

  このようにして弟子たちに最初に現れてくださった復活のキリストは、開口一番、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。なぜなら、すでに最後の晩さんの席上でなさった告別説教の中で、弟子たちに次のような約束をなさっておられたからです。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしがこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と」(ヨハネ14.27)。

  次に、復活のキリストは、早速、弟子たちを派遣なさいます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。そして、さらに、弟子たちに聖霊を吹きかけられたのです。ところで、ルカは、弟子たちに聖霊が降ったのは、イエスの復活から50日目の五旬祭の当日であったと報告していますが、確かに弟子たちの派遣と聖霊を次のように結びつけています。

  「あなたがたに聖霊が降ると、あなたたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と(使徒言行録1.8)。わたしたちも、主の復活の証人として人々のもとも派遣されているのです。それは聖霊から力を頂くので、イエスの死と復活を告げ知らせることができるからです。教会がこの使命を忠実に果たして行くことができるように共に祈りたいと思います。

復活の主日・C年(10.4.4

「新しいいのちを生きる」

復活節の由来 

  今日、全世界の教会と心を一つにして祝う「復活の主日」は、典礼の伝統に従って「聖なる過越の三日間」つまり、「主の晩さんの夕べのミサ」で始まった主の過越の神秘を祝う三日目となります。さらに、今日が「復活節第一主日」です。ちなみに、この「復活節」の由来は、すでに初代教会において主の復活を50日間かけて祝ったことにさかのぼります。なぜなら、この「復活節」全体が一つの祝祭日(しゅくさいび)であると受け止めたからです。ですから、聖アンブロジオ司教教会博士は、「五十日間は、復活の日のように祝い、すべての日々はまるで唯一の主日のようである」と断言しています。したがって、今日祝うイエス・キリストの復活という救いの最高の出来事は、まさに五十日間かけて祝わねばならないほど、人類にとって最も大切な神の救いみ(わざ)であると言えます。 

なぜ過越の神秘なのか

ところで、今日の第二朗読で、パウロは「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」と、明らかにイエスの死と復活の出来事を、ユダヤ教の三大祭りの一つである「過越祭」に結びつけています。ですから、イエスが弟子たちとなさった最後の晩さんも、「過越祭」の食事だったのです。

  実は、昨夜の「復活の聖なる徹夜祭」の第三部で行われた洗礼水の祝福の祈りに、次のようなくだりがありました。「アブラハムの子孫がエジプトを脱出した時、海の中に乾いた道を備えて約束の地に渡らせ」と。つまり、毎年この時期に、イスラエルの人々がエジプトの奴隷の家から神によって奇跡的に解放されたことを祝っていた「過越祭」は、わたしたちにとっては、「復活祭」となったのです。なぜなら、洗礼こそが、イエスが死からいのちへと過越された救いの神秘にあずかることにほかならないからです。 

新しいいのちに生きるため

ですから、パウロは、わたしたちが生涯かけて生きる洗礼の恵みを次のように説明しています。

  「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」と(ローマの信徒への手紙、64節)。つまり、わたしたちもキリストに倣って罪に死んで復活のいのちへと過越すことが出来るのです。そして、この新しいいのちを生きるとは、具体的にどのような生き方なのか、さらに、パウロは、同じ手紙の中で次のように説明します。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分の罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と(同上10節〜11節)。つまり、日々古い自分に死んで罪から解放されて、キリストに結ばれ、神を中心にして生きることなのです。すなわち、神をないがしろにする自己主張をやめて、徹底して神に聞き従うという新しい生き方なのです。

  さらに、この新しいいのちを生きる生き方の基本を、パウロはまた次のように具体的に教えてくれます。

  「自分の体を神に喜ばれる神聖にして生ける<いけにえ>とし献げなさい(ささ)。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と(ローマの信徒への手紙、121節〜2節)。 

見て、信じた

次に、今日の福音が伝える使徒ヨハネが、イエスの復活を信じることができるようになった体験を少し振り返ってみましょう。

  福音は、まず、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」と報告しています。そして、イエスのご遺体のない(から)の墓を目撃し、早速、ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って戻り、「主が墓から取り去れました。どこに置かれているのか、わたしたちには分りません」と。このマグダラのマリアもまだイエスの復活を信じることが出来なかったので、イエスのご遺体が見当たらなかったことに驚いて、そのことを弟子たちに報告したのでした。そこで、ペトロともう一人の弟子も、墓に一緒に走って行ったのですが、先に着いたもう一人の弟子、恐らく使徒ヨハネでしょうが墓の中には入らず外から覗いて(のぞ)見た物は、亜麻布でした。次に、(あと)ら墓に到着したペトロは、早速、墓の洞窟(どうくつ)中に入り、ご遺体を包んで(つつ)いた亜麻布と、イエスの頭を包んで(くる)いた覆い(おお)が丸めてあるのを肉眼で見ただけです。ところが、後から墓の洞窟(どうくつ)中に入ったヨハネは、その情景を信仰の目で見ることができたので、まさにイエスの復活を信じることができたのです。そのことを、今日の福音は、「見て、信じた」と簡潔に説明しています。つまり、イエスの復活を信じることが出来るのは、わたしたちの肉眼でその様子を見ることができるからではなく、あくまでの信仰の目でその出来事を見ることが出来るかどうかにかかっているのです。

  次に、イエスが復活させられた当日、エルサレムからエマオという村に向かって逃亡しようと急いて歩いていたクレオパともう一人の弟子がどのようにして復活のイエスにお会いできたのかを見てみたいと思います。最初の段階で、彼らは、道すがら一緒に歩いておられた方が、復活のイエスだとは全く気づきませんでした。ですから、見知らぬ旅人の一人だと思って、イエスのご遺体が見当たらないことにどれだけ自分たちが動転しているかを、当の本人に話したのです。それに対して、イエスは深く嘆かれました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったではないか」と。そして、聖書全体にわたりご自分について書かれていることを説明されたのです。さらに、一緒のお泊りになられた宿で、弟子たちと一緒に食卓に着かれ、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになられました。そのときです。この二人の弟子の信仰の目が開かれ、復活のイエスだと分ったのです。

  わたしたちも、毎回ミサを共にささげるとき、前半の「ことばの典礼」でイエスについて語られる聖書に耳を傾け、後半の「感謝の典礼」において、イエスがパンとぶどう酒によってご自分を天の御父にささげられるとき、まさに復活のイエスを信仰の目によって仰ぎ見ることができるのです。それだけでなく、イエスの復活にあずかることができるすばらしい恵みを、必ずいただくことができるのです。なぜなら、イエスはマルタとマリアに向かって次のように宣言なさったからです。「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」と(ヨハネ福音書、1125節〜26節)。

復活のキリスト像(元寺小路教会小聖堂)

受難の主日(枝の主日)・C年(10.3.28

「今日わたしと一緒に楽園にいる」

王に、祝福があるように 

  先ほど、わたしたちは枝の行列によって、イエスがいよいよエルサレムに入られたときの歓迎を記念しました。なぜなら、このエルサレムこそが、イエスの受難と十字架上での死、そして復活させられたというまさにクライマックスの舞台になる聖なる都だからです。ですから、イエスは、すでに弟子たちに対して三回目の予告で次のように宣言なさったのです。

  「今、わたしたちはエルサレムに上って(のぼ)行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、(つば)をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」と(ルカ福音書1831節〜33節)。

  とにかく、遠いガリラヤからやっとエルサレムにたどりつかれたイエスは、まず、大勢の人たちによって歓呼の叫びのうちに迎えられました。

  「主の名によって来られる(かた)王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と。 

イエスの受難のドラマ 

  ところが、今、全員で朗読した「主の受難」によって、場面は一変(いっぺん)新た(あら)展開が始まりました。

 裁判  

まず、初めに最高法院でイエスが神を冒涜する者として宗教裁判を行ったユダヤ人指導者たちは(ルカ福音書2266節〜71節参照)、早速、イエスをローマの総督ピラトに引き渡しました。そして、ピラトに対してイエスを訴えたのですが、ピラトは祭司長と群衆に向かって「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と突っぱねました。ここで、初めてこの裁判に「群衆」も加わっていることが分かります。けれども、彼らは、また、新たに訴える口実を即座に付け加えました。「この男は、民衆を扇動(せんどう)しているのです」と。これを聞いたピラトは、今度は、祭りのためにエルサレムに来ていたガリラヤの領主ヘロデのもとにイエスを追放します。そこでも、ユダヤ人指導者たちがイエスを激しく訴えたので、ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスを嘲り(あざけ)侮辱(ぶじょく)します。そこで彼らがイエスに着せた「派手(はで)(ころも)」は、わたしたちにとっては、まさに神の子がお召しになるにふさわしい栄光に輝く衣になるのではないでしょうか。

  とにかく、再びピラトのもとに引き出されたイエスを前に、ピラトはユダヤ人指導者と民衆に向かってイエスの無罪を主張します。「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない」と。ところが、群衆は一斉に叫びます。「この男を殺せ。 バラバを釈放しろ」と。さらに、ピラトは、三度目のイエスの無罪の宣言をします。けれども、今日の第一朗読の「主の僕の歌」が描いているように、無実(むじつ)な僕が人々の罪の赦しのために苦しみを背負うのが、イエスの姿なのです。

  ですから、当時のユダヤ社会において最高の権限を持っていたはずのピラトも、とうとう群衆の要求を受け入れてしましました。 

・十字架の道行き  

次の場面は「されこうべ」と呼ばれる刑場に向かって歩まれたイエスの十字架の道行きです。その道筋に登場する人物たちは、イエスに代わって十字架を背負ってくれたシモンという異邦人や、イエスの苦しみを嘆き悲しむ婦人たちと民衆です。イエスは、おっしゃいました。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と(ルカ福音書1427節)。ですから、このシモンは、まさにわたしたちに模範を示すためにイエスの十字架を背負ったのではないでしょうか。 

・赦しをもたらすイエス  

そして、ついに十字架に架けられたイエスが最初ささげられた祈りは、まさにわたしたちの罪の赦しのためでした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。また、今日の答唱詩編で歌ったように、十字架上のイエスは「神よ、わたしから遠くはなれず、急いで助けに来てください」と、御父に全面的に信頼しておられました。

  さらにイエスは、同じように十字架に架けられていた犯罪人の一人が回心したので赦しと救いを優しく宣言なさいました。「アーメン、わたしはあなたに言う。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。 

・イエスの最後の祈り  

さらに、イエスの受難の決定的瞬間が近づいたとき、三時間にわたって暗闇(くらやみ)が地上を覆います(おお)。これは、まさにイエスの死が、全世界に及ぶ救いの出来事であることを象徴しているのではないでしょうか。また、神殿の垂れ幕(たれまく)が真ん中から裂けた()のは、イエスが死を過越して御父を目の当たりにすることができることを暗示しているのかも知れません。そして、最も注目すべきは、イエスの最後の祈りです。「父よ、わたしの霊を御手(みて)にゆだねます」と。これは、詩編31編からとられたもので、苦痛から感謝へと変わっていく、聖書の中の最も表現豊かな祈りの一つと言えます。まさに、神の誠実さに対する根本的な信頼を表しています。

  ですから、一時(いちじ)は、闇の力が勝利を収めたように見えたにしても、イエスは最後に御父のみ手にご自分の霊を全面的にゆだねられ確固たる信頼のうちに息を引き取られたのです。 

・目撃者の証言  

このイエスの感動的な受難のドラマは、目撃者のそれぞれの反応の報告で締めくくられます。最初の証言は、なんとローマ軍の百人隊長の賛美と信仰告白です。「本当に、この人は正しい人だった」と。イエスの全生涯と全使命は、まさに神への(まこと)そのものでした。イエスは、恐ろしい悪の力によって残酷(ざんこく)な試練を受け、殺されるまで、常に御父のご意志に忠実であり続け、彼の「正しさ」を証明なさったのです。

  また、十字架上の出来事を見物していた群衆も回心して胸を打ちながら家に帰って行きました。

  わたしたちも、このイエスの受難のドラマの目撃者として、イエスに何を申し上げればよいのかを、共に黙想したいと思います。

  悪徳の追放  マンテニア  ルーブル

四旬節第5主日・C年(10.3.21

「見よ、新しいことをわたしは行う」

新たな解放 

  四旬節もいよいよ最後の締めくくりの週に入りました。したがって、イエスの死と復活という「過越の神秘」が、わたしたちに何をもたらすのかを、より深く悟ることができるように、今日の聖書朗読箇所を、共に味わってみたいと思います。

  先ず、第一朗読ですが、便宜上第二イザヤと言われる箇所からとられています。この第二イザヤが書かれた時代背景は、紀元前6世紀にイスラエルの民が戦勝国バビロニア帝国の首都バビロンの近郊に強制的に移住させられていたというまさに屈辱に満ちた占領政策に服従していたときです。

  そこで、この預言者は、すでに紀元前13世紀に実現した神の偉大な解放の業を、次のように改めて思い起こさせるのです。

  「海の中に道を通し 恐るべき水の中に通路を開かれた(かた)

  戦車や馬、強大(きょうだい)な軍隊を共に引き出し

  彼らを倒して再び立つことを許さず

  灯心のように消え去らせた方」と。

  この海の中の道とは、まぎれもなくエジプトの奴隷の家からモーセに率いられて(ひき)奇跡的に脱出できたイスラエルの人々が、追いかけて来たエジプトの軍勢と目の前に立ちはだかる海に阻まれた(はば)ときです。「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しいい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水が分れて」(出エジプト記1421節)出来た道のことです。ちなみにこのようにして海を過ぎ越すことができたことを、パウロはイエス・キリストの過越の神秘に与る洗礼を前もって示した出来事であったと解釈しています。このことは、すでに四旬節第3主日の第二朗読で説明されました(コリント一、1-4参照)。

  ところが、第二イザヤは、唐突にも「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」と、捕囚民に呼びかけます。なぜなら、神は、まさに新しいことを行うとしておられるからだというのです。だから、「初めからのこと」や「昔のこと」をもはや思いだす必要がなくなるようなまさに「新しいこと」を、神は今やなさろうとしておられるのです。

  では、この「新しいこと」とは、一体どのような救いの出来事なのでしょうか。まず、それに伴う自然界の変化を大胆に描きます。

  「わたしは荒れ野に道を敷き

  砂漠に大河を流れさる。

  野の獣、山犬や()鳥もわたしをあがめる。

  荒の野に水を、砂漠に大河を流れさせ

  わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ」と。

  このように荒れ野には道が開かれ、砂漠に大河を流れさすほどの驚くべき

変化を伴うほどの出来事とは、バビロンから捕囚民を解放するという神の偉大なみ業にほかなりません。ちなみに、海の中に道を「通した」方が、今度は、砂漠に大河を「流れさせる」のです。まさに、神は自然界を自由に支配してまでも、救いを実現させることの出来るお方であることが強調されています。しかも、それは救いの「水」を、わたしたちの魂に注いでくださるのです。

  ですから、イエスは、サマリアの女に次のような驚くべき宣言をなさったのです。

  「わたしが与える水を飲む者は決し渇かない。わたしが与える水はその人の(うち)で泉となり、永遠のいのちに至る水がわき出る」と(ヨハネ福音書414節)。 

イエスに捕えられたのでイエスを求め続ける

しかしながら、パウロは今日の第二朗読で、イエスを絶えず求め続けなければならいことを、次のように強調しています。

  「わたしは主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では()の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥(ちりあくた)見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。・・・わたしには、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです」と。 

すべての罪を赦してくださるイエス

ところで、今日の福音は、このヨハネ福音書が書かれた後に挿入された箇所と言われていますが、イエスがわたしたちのあらゆる罪を赦してくださることによって、まさに神の深い憐れみのすばらしさを見事に描いているエピソードではないでしょうか。

  朝早く、イエスがエルサレムの神殿の境内で民衆に教えていたときです。律法という掟にがんじがらめになっていたため、憐れみの神の姿が見えなくなっていた律法学者やファリサイ派の人々が姦通の現場で取り押さえられた女性を、イエスのもとに引き立て、取り囲んでいる人々の真ん中に立たせます。たしかに、旧約聖書の申命記22章によれば、この罪は石打の刑に処せられるのです。ところが、律法学者やファリサイ派の人々は、イエスを試して訴える口実を得ようと、イエスに尋ねます。「ところで、あなたはどうお考えになりますか」と。そこで、イエスは、何もお答えにならず、ただかがみ込み、地面に指で何かを書き始められました。けれども、彼らはしつこく問い続けます。そこで、イエスは身を起こして、静かに命じられます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。それからまた、身をかがめて地面に書き続けられ、周りにいた人々に神の前で自分自身を反省するときを与えられました。

  ですから、周りを取り囲んでいた人たちも、自分の罪にも気づき、年長者から、一人また一人とその場を立ち去ってしまいました。そして、そこに残ったのは、その女性一人だけになりました。そこで、イエスは身を起して、この女性に丁寧に尋ねます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかった(さだ)のか」と。それに対して、彼女は、おそるおそる答えました。「主よ、だれも」と。それから、イエスはやさしく宣言なさいました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。十字架上で流されたイエスの血は、全人類に罪の赦しをもたらします。

わたしたちも、このイエスの赦しに豊かにあずかることができるように共に祈りたいと思います。

四旬節第4主日・C年(10.3.14

「いなくなっていたのに見つかった」

我に返る

四旬節もいよいよ後半に入りました。したがって、わたしたちの回心の歩みもさらに充実させるときではないでしょうか。それでは、早速、特に今日の福音が伝える回心の体験について少し掘り下げて考えてみましょう。

  今日の福音は、だれもがよく知っている福音書が語るたとえの代表的な「放蕩息子」であります。しかしながら、このルカの福音書の文脈からすると、実は、15章でまず、「見失った羊」のたとえ、次に「無くした銀貨」のたとえ、そしてこの「いなくなっていたのに見つかった息子」のたとえが、語られているのです。ですから、いずれも「見失っていたものを見出す」ということが共通のテーマになっているのです。しかも、この三番目のたとえが、動物やお金ではなく、神の憐れみに満ちた愛と人間の回心の歩みを、感動的に描いています。

  では、この「いなくなっていた息子」の物語を、くわしく見てみましょう。

まず、二人の息子の弟のほうが、父親に自分が受け継ぐことのできる財産を要求します。「お父さん、わたしが頂く(いただ)ことになっている財産の分け前をください」と。実は、父親が存命(ぞんめい)であるにもかかわらず、遺産の分け前を要求するのは異例のことでした。とにかく、当時の規定では、父親の遺産の分配は、長男には三分の二、次男には三分の一でしたが、父親がまだ生きている間は、双方とももっと少なかったのです。

  それはともかくとして、問題は、自分の分け前を受け取ったこの次男のその後()の行動です。つまり、「何日もたたないうちに、下の息子は全部を(かね)に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」のです。ここで言われている「放蕩の限りを尽くして」ということですが、直訳すれば「救いの望みなく生きて」となり、結局、放蕩の善し悪し(よしあし)ではなく、この次男の問題は、救いにつながらない生き方に陥って(おちい)しまったということです。それは、(もと)はと言えば、まず父親の(もと)から離れたことがそもそもの間違いだったのです。つまり、彼の根本的過ち(あやま)、自分が本来あるべき所から遠く離れた「遠い国」に勝手に旅立ったことです。すなわち、神と父親から遠く離れてしまったことにほかなりません。ですから、わたしたちも気をつけなければ、それこそ生活に流され知らず知らずのうちに神から離れた生き方に陥ってしまうということです。つまり、日々の生活で祈ることを怠り、また、毎日、聖書を開いて<みことば>に聞くことを忠実に実行しなければ、結局、神不在の生活になってしまうのではないでしょうか。

  ところで、この次男は、空腹(くうふく)で苦しみのどん(ぞこ)突き落とされたとき、初めて、我に返ることができたのです。つまり、自分の罪に気付いたのです。すなわち、何か掟を守らなかったというようなことではなく、何よりも、神と父親とのあるべき関係から逸脱(いつだつ)していたことに気付いたということです。ですから、彼は、正直に告白しました。

  「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子を呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。

  このように、回心とはまさの天の御父のもとに立ち返ることにほかなりません。それこそ、形振り(なりふ)かまわず、この息子は「雇い人の一人にしてください」と、心からへりくだります。

死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった

このように回心して、早速、神と父親のもとに帰って来た息子が、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れみ思い、走り寄って首を抱き。接吻した」のです。まさに、人間的な常識では考えられない父親のとった行動です。そこで、この息子は、父親に対して素直に告白します。

  「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と。しかしながら、父親は、息子に「雇い人の一人にしてください」とは言わせず、早速僕たち(しもべ)に命じます。

  「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物をはかせなさい。それから、肥えた()子牛を連れて来て屠りなさい(ほふ)。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と。神と父親から離れてしまうことは、まさに霊的な死を意味するのです。けれども、再びいのちの源である神と父のもとに戻ることによって、生き返ることができるのです。

  とにかく、この父親が祝う祝宴は、まさに「天の祝宴」にほかなりません。ですから、そのことは、すでに、この章の最初の「見失った羊」のたとえの締めくくりの言葉として次のように語られています。

  「言っておくが、このように、回心する一人の罪人(つみびと)については、回心の必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と(ルカ福音書157節)。

  もし、それこそ世間的に考えるなら、この父親が皆から何と言われるか、想像できるのではないでしょうか。

  「何と愚かな父親だ。親ばかもはなはだしい。どら息子をつけ上がらせる()だけではないか」と。

  実は、この兄の反応が、全く世間並み(せけんな)でした。そのことを、ルカは次のように語ります。

  「そこで、(しもべ)の一人を呼んで、これはいったい何事がと尋ねた。(しもべ)は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いた(そむ)ことは一度もありません。・・・ところが、あなたのあの息子が、娼婦(しょうふ)どもと一緒にあなたの身上(しんしょう)を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』」と。

  この兄の怒りは、人間の思いからするとごく当たり前のことです。けれども、神の愛は、人間の目からすれば、まさに「愚かな愛」と言えましょう。この神の無償(むしょう)の愛は、実は、すでに旧約聖書で次のように語られています。

  「しかし、わたしが彼らをいやしたことを 彼らは知らなかった。わたしは人間の(つな)、愛のきずなで彼らを導き 彼らの(あご)から(くびき)を取り去り 身をかがめて食べさせた。・・・ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。・・・わたしは神であり、人間ではない」と(ホセア書113節から9節)。

  そして、わたしたちが神のもとに立ち返ることができるのは、この次男のように、父である神がすでにわたしたちを、すでに全面的に赦してくださっていることに気づくときにほかなりません。この貴重な体験を、イザヤは次のように強調しています。

  「わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った(あがな)」と(イザヤ書4422節)。

  この恵みのときに、共同体ぐるみで、回心できるよう共に祈りたいと思います。

放蕩息子

四旬節第3主日・C年(10.3.7

「海の中で洗礼を授けられ」

彼らを救い出し、導き上る 

  先ほどの集会祈願で、共同体は、特に「あなたの力によって罪の束縛(そくばく)から解放され、新しい人となることができますように」と祈りました。四旬節の歩みも半ば(なか)に達し、わたしたちは洗礼志願者と共に信仰者の生き方の基本についての見直しをさらに深めなければなりません。

  では、早速、今日の第一朗読を読み返して見ましょう。

  今日の朗読箇所は、旧約聖書の二番目の書物である『出エジプト記』からとられています。これは、紀元前13世紀に、それまでエジプトで過酷な重労働に課せられていた古代イスラエルの人々が、その奴隷の家から神によって奇跡的に解放されたというまさに救いのみ業のクライマックスを物語って(ものがた)いる書物です。

  ですから、今日の箇所は、その解放のためのリーダ―としての召命を、モーセが神から受ける場面であります。

  モーセという名は、エジプトの王女が、彼をナイル川から救い上げたことにちなんで名づけられました(出エジプト記210節参照)。そして、乳離れ(ちばな)するまで、(じつ)の母親によって育てられ、その後()は、王の宮殿で王女の息子として育てられますが、同胞のヘブライ人を助けるためにエジプト人を殺害してしまいます。そのためモーセは、自分の身の危険を感じて遠い国ミディアンに逃亡し、そこで羊飼いの娘と結婚し、羊飼いとして(へいおん)な人生を送っていたのです。ところが、彼が八十歳になろうとしていた晩年に、このとてつもない重大な召命を、神から受けることになったのです。

  そこで、神の山ホレブ(別名シナイ)に来たときです。突然、不思議な光景(こうけい)をまのあたりにします。「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使い(みつか)が現れた」のです。しかも、その「柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」のです。その原因を突き止めようと、モーセは、道をそれてしまい、神との感動的な出会いを体験します。何と「モーセよ、もーせよ」と名指して神から呼びかけられたのです。彼は、畏れながら「はい」と答えます。すると神は、厳か(おごそ)に命令なさいます。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」と。そして、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、まさに自己紹介をなさいます。実は、この「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とう表現は、イエスが、サドカイ派の人たちに対して死者の復活の証明として引用し、先祖の神は今なお生きておられ、まさに神は生きているものの神であることを強調なさいました(マタイ福音書2232節参照)。

  そして、さらに、早速、神がなさろうとしておられる偉大な救いのみ業を説明なさいます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って(くだ)行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る(みちびきのぼる)」と。

  このように、まず神は、ご自分の行動パターンによって、どんな神であるかを説明なさいます。まず「ご自分の民の苦しみをつぶさに見る」のです。また、「苦しむ人々の叫びを聞く」のです。さらに「彼らの痛みを知って、降って(くだっ)行って彼らを救い出す」お方なのです。

この旧約聖書が語たる神の救いのみ業の最初のマックスに、モーセがまさに神の道具となるという重大な召命をいただいたのです。ですから、モーセは、さらに神に尋ねます。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」と。

  それに対して神は、ご自分の名前というよりは、神はどのような(かた)であるのかを、次のように説明なさいます。「わたしはある。あたしはあるという者だ」と。つまり、「神の名」ではなく、神ご自身が、イスラエルの民に対して働きかけるときの特別な現れ方を示した言い回しなのです。ですから、ここで言われている「ある」とは、ただ神の存在を強調するだけではなく、特に苦しむ人間を死からいのちへと解放するために存在することを宣言しているのです。したがって、「わたしは必ずあなたと共にいる」神であると主張しておられるのです。つまり、神こそは「どんなときにも、どんな所でも、そのときに最も適切なあり方(かた)で共にいてくださる(かた)」なのです。 

海の中で、洗礼を授けられ 

  ところで、今日の第二朗読によって、パウロはモーセの時代のエジプトの奴隷の家からの解放という救いの出来事を、次のように、イエス・キリストによる救いの神秘に見事に結びつけています。

  「わたしたちの先祖は皆、雲の(した)におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」と。モーセに率いられてイスラエルの群衆は、追って来たエジプトの軍勢から逃れようとしましたが、目の前に広がる海にまれ(はば)てしまします。

  そのとき、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に真っ黒な雲が立ち込め、光が闇を貫き(つらぬ)、両軍は、一晩中、互いに近づくことができませんでした。そこで、モーセが手を海に向かって差し伸べると、(しゅ)は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、イスラエルの人々はその乾いた所を進み、向こう岸に逃れることができたのです。実は、この出来事が、イエス・キリストによって罪の奴隷から解放されて、新しい復活のいのちへと過ぎ超すという洗礼の恵みを前もって示したものだったのです。それだけではなく、その後()の荒れ野での旅で与えられたマンナという食物が、毎日与えられました。

  しかしながら、今度はイエスが、パンの奇跡の(あと)、群衆に向かって厳かに次のように宣言なさいました。

  「あなたがたの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って(くだ)来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って(くだ)来た生きたパンである。このパンを食べるなら、その人は永遠に生きる」と(ヨハネ福音書649節から51節)。

  古い自分つまり罪から解放されて、新しいいのちへと過ぎ越すことができるのは、まさにわたしたちのために死んで葬られ三日目に復活させられたイエス・キリストのお陰です。この偉大な「過越の神秘」を、共同体ぐるみでふさわしく祝うために引き続き回心の道を忠実に歩み続けることができるように、共に祈りたいと思います。

四旬節第2主日・C年(10.2.28

「これはわたしの子、これに聞け」

義と認められた 

  四旬節も、第二週目に入りました。この回心の恵みの時期に、信仰の生き方の基本について、今日も少し振り返ってみたいと思います。

  先ず、今日の第一朗読ですが、信仰の父アブラハムが、まだアブラムと呼ばれていた時の体験が、語られています。今日の箇所は、(しゅ)なる神が、アブラムを天幕の外に連れ出すところから始まっていますが、実はそれまでの神とアブラムとの真剣な対話が非常の大切なので、ここで紹介します。それは、創世記の15章で、次のように始まっています。

  「これらのことの(あと)で、(しゅ)ことばが(まぼろし)の中でアブラムに臨んだ(のぞ)。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの(たて)である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。』アブラムは尋ねた。『わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。』アブラムは言葉をついだ。『ご覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の(しもべ)が跡を継ぐことになっています。』見よ、主のことばがあった。『その者が跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』」と(創世記151節から4節)。

  すでに、主なる神は、アブラハムに次のような約束をしています。「あなたの子孫を大地の砂粒(すなつぶ)ようにする。大地の砂粒(すなつぶ)が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」と(創世記1316節)。にもかかわらず、この約束は一向に実現しませんでした。ですから、アブラハムは神のご計画を待ちきれず、勝手に跡継ぎ(あとつ)決めてしまったのです。すべてのことを決めるとき、また実行するために、いつも忠実に神に聞き従っていたはずのアブラハムも、まさに自分の思いと考えを優先させてしまったのです。

  しかしながら、そこで神は改めてご自分の思いを、はっきりと次のように確認なさいました。

  「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と。

  それから、神は、極めて象徴的なことをなさいます。つまり、早速、彼を天幕の外に連れ出したのです。それは、自分の思いと考えという天幕から出なさいということです。そこで、神は、命じられました。「天を仰いて、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と。すなわち、自分の考えを、かなぐり捨てて、神のことばに全面的に従いなさいということです。

  そこで、アブラハムは、早速、自分が勝手に立てた計画を、潔く(いさぎよ)引っ込めて、神のおことばに聞き従ったのです。これこそが、アブラハムの信仰でした。ですから、「主はそれを彼の義と認められた」のです。それは、同時に信仰のいのちが彼の魂に吹き込まれた貴重な体験でした。

  ですから、預言者イザヤは、神に聞き従うことがまさにわたしたちの信仰体験の原点であることを、次のように強調しています。

  「わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。

聞き従って、魂にいのちを得よ」と(イザヤ書55 2節から3節)。 

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」 

  次に、今日の福音では、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちが、イエスのご変容を目撃できたとう素晴らしい体験が報告されています。実は、これは、イエスが初めて、ご自分の受難と復活の予告をなさった直後の出来事だったのです。今日の福音のマタイの並行箇所では、そのイエスの予告に対してのペトロのあからさまな反応が、次のように詳しく語られています。

  「このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』と」。

  ペトロも、アブラハムと同じように、神の思いを全く無視して、一方的に自分の思いによって行動してしまったのです。つまり、ペトロが人間の思いにとらわれていたので、神の思いを受け入れることができなかったのです。

  ですから、イエスは、弟子たちの中から特に三人をお選びになり、ご自分の復活の栄光の輝くお姿を、わざわざ垣間見せて(かいまみ)くださったのです。

  そこで、ペトロ、ヨハネ、そしてヤコブを連れて山に登られ祈っておられたイエスのお姿が急変しました。特にマタイの並行箇所では、詳しくその様子を、次のように描写しています。

  「イエスの姿は彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と(マタイ福音書172節)。

  そして、そこにこれまた栄光の包まれて現れたのが、旧約時代を代表するモーセとエリヤです。しかも、この二人がイエスと話した内容は、イエスがすでに弟子たちに予告なさたエルサレムにおける最期(さいご)つまり十字架上の死と復活だったのです。

  そこで、天の御父から極めて大切なおことばが与えられました。

  「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が、雲の中から聞こえたのです。とにかく、神ご自身が、イエスを「神の子」であると宣言なさったのです。そして、ここでは、「選ばれた者」となっていますが、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときは、天の御父が、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う(かな)者」と、同じように宣言なさいました(マタイ福音書317節)。

  そして、わたしたちにとって極めて大切なおことばは、「これに聞け」とう天の御父のご命令です。なぜなら、わたしたたちの信仰の原点は、まさに「イエスに聞き従う」ことに他ならないからです。このことを、パウロは、次のようの教えてくれます。

  「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです」と(ローマの信徒への手紙10 17節)。ですから、具体的には、日々、聖書を開いてイエスのおことばを、深く味わうということを、家族ぐるみで実行することです。

  この四旬節の間、共同体全体が、日々、忠実にイエスに聞き従うことができるよう、共に祈りたいと思います。

主の変容(イコン)

四旬節第1主日・C年(10.2.21

「主を拝み、ただ主に仕えよ」

  四旬節にあたって 

  今年も、先週の「灰の水曜日」から四旬節に入りました。復活徹夜祭に洗礼を受ける洗礼志願者の準備期間でもあるこの四十日間は、共同体ぐるみで、それこそ信仰の原点に立ち返り、償い(つぐな)と回心のわざに励む恵みの期間であります。

  ですから、この説教の(あと)に、早速「洗礼志願式」を行い、共同体が洗礼志願者のために祈りをささげます。  それでは、いつものように今日の聖書朗読の箇所を、手がかりにまず、キリスト者の生き方の基本について少し振り返ってみたいと思います。

神の救いの御業(みわざ)を思い起こす 

今日(きょう)の第一朗読は、旧約聖書にある『申命記』からとられています。実は、この『申命記』という書物のタイトルですが、「重ねて命じられた書」という意味です。その内容としては、モーセが死を目前(もくぜん)にして、ヨルダン河の向こう側のモアブの地で、イスラエルの民全体に向かって守るべき律法について改めて、あたかも彼の遺言として語ったという設定になっています。それは、まず、イスラエルの民が、エジプトの奴隷の家から神の力によって奇跡的に解放されたことを思い起こしています。そしてさらに、四十年間の長きにわたって荒れ野を旅してやっとたどり着いた約束の地、乳と蜜の流れるカナンをヨルダン川の対岸にのぞみながらイスラエルの全会衆がモーセの前に集まっています。そこで、カナンに入ってからも忠実に守るべきことを、モーセが切々と語ったというスタイルで書かれています。

  ですから、今日の箇所は、イスラエルの非常に古い「信仰告白」を含んだ内容になっています。まず、環境設定としては、年ごとに祭司が、会衆の手から初物(はつもの)を入れた(かご)を受け取って、聖所の主の祭壇に供えます。次に、会衆全員が次のような信仰告白を一緒に唱えたのです。

  「・・・わたしたちの先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げ(しいた)をご覧になり、力ある御手(みて)()(うで)を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました」と。

  つまり、神から与えられた恵みとは、作物の生育(せいいく)にふさわしい天候ではなく、「滅びゆく(いち)アラム人に」にすぎなかった先祖を、神がエジプトの奴隷の家から導き出し、「乳と蜜の流れるこの土地」を与えたこと、すなわち救いの歴史における神の導きこそが、恵みであると告白しているのです。

  ですから、わたしたちも日々の食卓を囲み、家族がそろって食前、食後の祈りをするときには、目に前にある食物に対して感謝するだけではなく、さらに神の救いの大いなる御業(みわざ)を思い起こすために聖書の朗読をも加えることができます。とにかく、毎日、神に心を開き、神のみことばを深く味わうことが肝心です。ちなみに、この四旬節中、『教会の祈り』の「初めの祈り」では、「今日(きょう)、神の声を聞くなら、神に心を閉ざしてはならない」と、繰り返します。

みことばはあなたの口、あなたの心にある 

  ところで、今日の第二朗読でも、パウロは、初代教会の基本的な信仰告白を教えてくれます。

  「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。・・・『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』」と。

  そして、パウロは、さらに次のように語り続けます。

  「ところで、信じたことのない(かた)を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない(かた)を、どうして信じられよう。また、()べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして()べ伝えることができよう。・・・実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです」と(ローマの信徒への手紙10 14節から17節)。

  ですから、何よりもまずそれぞれの家庭で、特に子どもたち、若者たちに繰り返しキリストのことばを語り聞かせることは、親の大切な責任であります。

  このことは、すでにモーセの時代から守るべきことであったと、次のように語られています。

  「今日(きょう)わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」と(申命記66節から7節)。 

人は主の口から出るすべてのことばによって生きる 

  ところで、今日(きょう)の福音が伝えるイエスが悪魔の誘惑に打ち勝った出来事ですが、すべては旧約聖書の申命記からのみことばが力強い武器となっています。

  まず、最初の誘惑ですが、四十日間の断食の(あと)、空腹で苦しんでいるイエスに悪魔は、語りかけます。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と。それに対して、イエスは毅然(きぜん)として言い返されます。「人はパンだけで生きるものではない」と。実は、この言葉は、申命記からの引用ですので、その大切な次のような文脈を、ここで紹介したいと思います。

  「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し(ため)、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒め(いまし)を守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はバンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることを、あなたに知らせるためであった」と(申命記82節から3節)。

  では、わたしたちはどうですか。信仰を生きていくためになくてはならない<いのちのことば>の大切さを十分に自覚していますか。しかも、信仰の喜びを体験できるためには、日々、みことばで心を満すために、聖書を読み、またみことばを聞くだけではなく、しっかり食べなければならないのです。とにかく、エレミヤのみことばの素晴らしい体験を、確認したいと思います。

  「あなたのみことばが見出されたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたのみことばは、わたしのものとなり わたしの心は喜び踊りました」と(エレミヤ書1516節)。

  特に、この四旬節の間、毎日、できるだけ家族が一緒に聖書を開き、みことばを深く味わい分かち合うことができなら、まさに恵み満たされた四十日になるのではないでしょうか。

サタンの誘惑を受けるイエス 

年間第6主日・C年(10.2.14

「ひたすら神により頼むので幸いである」

 心が神から離れるなら 

  わたしたちは、ミサの前半の「ことばの典礼」で、主日のミサでは、毎回三箇所の聖書朗読があり、第二ヴァチカン公会議の典礼改革が目指した「信者にみことばの食卓の富を豊かに与えるために、聖書の宝庫を今まで以上に開かねばならない」(『典礼憲章』51項)のです。けれども、如何(いかん)せん、やはり聖書は特別な書物なので、どうしても説明が必要です。たとえば、今日の第一朗読の冒頭は、いきなり神の呪いで始まっています。しかしながら、このヘブライ語の原文は、むしろ「無意味な生き方をしている者を()の当たりしたときの神の切なる思い」とでも言いましょうか。つまり、それは、神にではなく、「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし その心が主を離れ去っている人」の生き方がいかに空しい(むな)ことかと嘆かれる神のため息ではないでしょうか。

  ですから、また、わたしたちに対する厳しい警告の響きとも受け止めることができます。すなわち、わたしたちは、一体何をよりどころとして、毎日生活し、働いているのかという根本的な問い掛けであります。なぜなら、日々、神の祝福に満たされる条件は、ただ、ひたすら神にのみ寄り頼むこと以外に何もないからです。ですから、エレミヤは、叫びます。

  「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる」と。

  そして、それは同時に、神の掟と教えに忠実に従う生き方を実践することでもあります。

  ですから、先ほどの答唱詩編で次のように歌いました。

  「しあわせな人、神を畏れ、主の道を歩む者。しあわせな人、罪びとの道を歩むことなく、神の掟を喜びとし、昼も夜も教えを心に留める人。

  流れのほとりに植えられた木か、季節になると豊かに実り、葉もしおれることのないように、この人の行いも実を結ぶ」と。 

すべての人の中で最も惨めな者

ところで、パウロは、わたしたちの生き方は、現在から未来を見るのではなく、実は復活の栄光の光で、現在の現実を直視することの大切さを、次のように教えてくれます。

  「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないとわたしは思います」と(ローマの信徒への手紙818節)。

  また、特にわたしたちの避けることのできない死を、あくまでも復活の視点でとらえることは、まさにわたしたちの信仰の核心に触れることではないでしょうか。ですから、わたしたちは、次のようなイエスのおことばを、心から信じて死を迎えることができるのです。

  「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と(ヨハネ福音書1125節から26節)。

  ところで、パウロは、今日の第二朗読で、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と、断言しています。

  とにかく、わたしたちがこの世で耐え忍ばなければならないあらゆる苦しみ、そして特に決して避けることのできない死をどのように受け止めることができるのか、まさにわたしたちの復活信仰にかかっています。

  以前、愛する部下が46歳の若さで突然亡くなりその、悲しみに打ちひしがれていた社長さんが、彼の追悼ミサに参加した(あと)、その会食の席で、わたくしに話してくれました。「今日のミサはすばらしかった、わたしも、せめて今日一日だけでもいい、復活を信じたいです」と。 

ひたすら神により頼むからこそ、幸いである 

  ところで、今日の福音は、マタイが語る「山上の説教」の冒頭の箇所のいわばルカ版です。しかも、ルカのほうでは、マタイが全く触れていない「不幸」についても簡潔に語っています。おそらく、ルカは、わたしたち一人ひとりの具体的な生きざまに焦点を当てているのではないでしょうか。

  まず、いきなり、直接弟子たちに語りかけます。

  「まずしい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と。

  つまり、弟子たちも貧しかったのですが、なぜ、幸いなのですか。それは、神の国は、まず優先的に貧しい人々の只中で実現する「神の愛といつくしみの支配」だからです。つまり、この世の権力や富に頼ることのできない貧しさの中にあればこそ、結局、頼ることのできるお方は、神のみということになるからです。

  ですから、すでに、第一朗読でエレミヤがいみじくも強調しました。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる」と。

  さらに、イエスは、ずばりおっしゃいます。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」と。つまり、同じ弟子たちが、注意しないと、ここで言われている不幸な状態にも陥る(おちい)ということです。

  イエスは、すでに警告なさいました。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するいか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えるこことはできない」と(マタイ福音書624節)。ですから、たとえ自分自身が物質的にそれ程豊かでなくても、この世の富や権力に頼るならば、不幸なのです。

  あるいは、現代人が今日(こんにち)まで追求した進歩と発展、また繁栄を偶像化してしまう危険がいつもあるということです。ですから、イエスが荒れ野で体験した二番目の誘惑は、我々がいとも簡単に負けてしまうまさに今日的(こんにちてき)誘惑を、見事に示しているのではないでしょうか。

  「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、それらすべては、あなたのものになる。』イエスはお答えになった。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と」(ルカ福音書45節から8節)。

  最後に、わたしたちキリスト者の生き方の基本についての、パウロの適切な勧めの言葉に耳を傾けたいと思います。

  「自分の体を神に喜ばれる聖なる・生ける<いけにえ>として献げなさい(ささ)。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と(ローマの信徒への手紙121節から2節)。

 

年間第5主日・C年(10.2.7

「沖に漕ぎ出しなさい」

ゆるされた者の応答

   今日の第一朗読は、預言者イザヤの召命の場面を、極めて神秘的に描いています。まず、エルサレムの聖なる神殿で「高く天にある御座(みざ)に主が座しておられるのを見た」のです。とにかく、旧約聖書においても,新約聖書においても、人間は決し直接神を見ることはできないことになっています。ですから、このイザヤの特別な体験は、まさに神秘的なものであり、しかも神をあたかも王の姿で見ているのです。ですから、「天にある御坐(みざ)に座しておられる」だけではなく、その「(ころも)(すそ)は神殿いっぱいに広がって」いたのですから、まさに天と地が見事に結び合わされています。

  さらに天使たちまでもが、互いに神を賛美していたのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍(ばんぐん)の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と。この天使の歌声に合わせて、わたしたちも、ミサで「感謝の賛歌」を毎回歌います。なぜなら、地上の典礼は、天上の典礼と確かに結びついていることは、すでに第二ヴァチカン公会議の典礼神学によって次のように説明されているからです。

  「地上の典礼において、われわれは天上の典礼を前もって味わい、これに参加している。この天上の典礼は、旅人(たびびと)であるわれわれが目指す聖なる(みやこ)、エルサレムにおいて行われており、そこにはキリストが、()聖所(せいじょ)(まこと)幕屋(まくや)の奉仕者として、神の右に座っておられる」と(『典礼憲章』8項)。

  では、このような極めて荘厳な典礼に与ることができたイザヤは、一体(いったい)どのような自分の姿に気付かされたのでしょうか。

  「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍(ばんぐん)の主を見た」と。

  実は、ここでは省かれていますが、ヘブライ語の原文には、「ああ」という、無限の情感のこもった悲しみと絶望を表現した、本来葬り(ほうむ)のときの嘆きの声が挿入されています。ですから「わたしは滅ぼされる」を、「わたしはもう駄目だ」とも訳せます。なぜなら、本来この言葉は、「絶滅する、破壊する、やめる」という動詞によって作られており、<自己の崩壊、内側からの全面的な崩れ(くず)>を表し、多くの場合「滅びうせる」と訳されるからです。

  さらに、イザヤは「わたしは汚れた唇の者」と嘆きます。「唇」とは、古代人にとっては自分の全存在を現すところと思われていたからです。したがって、5節全体は、「ああ、わたしは完全に内側から崩れている。わたしの全存在が汚れ、全存在が汚れた民の中にいる・・・」となります。つまり、紀元前世紀の人間イザヤは、われわれ現代人よりもさらに深刻な不安と絶望を体験していたのではないでしょうか。

  また、肝心なのはそこでイザヤが、さらに次のことを体験したことです。

  「するとセラフィムの一人が、わたしのところに飛んで来た。その手には、祭壇から火(ばさみ)で取った炭火(すみび)があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの(とが)は取り去られ、罪は赦された』と」。

  とにかく、イザヤが「わたしがここにおります」と、神からの派遣を受け入れることができたのは、罪の赦しを体験できたからにほかなりません。「わたしはもう駄目だ」と絶望した人間が、今度はどうどうと神に向かって「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と名乗り出ることができたのは、「あなたの(とが)は取り去られ、罪は赦された」という宣言を心底(しんそこ)に聞きとった人間の感謝に満ちた応答にほかなりまっせん。 

今、新たに福音に生きる 

  ところで、今日の第二朗読で、パウロはまさに福音の根幹が何であるかを再確認し、それを生きることの大切さを強調しています。それは言うまでもなく、イエスの十字架上の死、そして葬られた(ほうむ)こと、さらに三日目に復活したことであります。この福音の中心的メッセージは、実は、パウロも受けたものなので、パウロ以前にすでに原始教会において形成された伝承を含んでいます。つまり、キリストの死と復活が全く同等の意義を持つものとみなされているということです。つまり、キリストの死は復活によってはじめて意義を持つのではなく、たとえ復活と切り離されても、十分に独自の価値がある出来事なのです。ですから、イエスの復活がなければ、キリストの宣教は無意味になりますが、キリストの死には、「われわれの罪のために」という重大な(わけ)があるのです。

  ですから、福音を生活のよりどころとするなら、わたしたいはまた福音によって救われるのです。それは、日々、古い自分に死んで、つまり罪から解放されて新しい復活のいのちによって生まれ変わることのできる体験です。ですから、日々新たに福音を生きることを、パウロは次のように勧めてくれます。

  「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られたあたらしい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」と(エフェソの信徒への手紙422節から24節まで)。 

少し漕ぎ出す(こぎだす)ように 

  次に、今日の福音で、一晩中働いても何も獲れなく()全くの徒労(とろう)に終わってしまったペトロに向かって、イエスは、もいう一度「沖に漕ぎ出しなさい」と命令なさいました。イエスは、大工の息子であって(りょう)関しては、全くの素人(しろうと)です。湖の魚は、普通は水の温度が高い浅瀬に群がる習性があるそうです。ですから、ペトロも、漁師としては、改めて沖に漕ぎ出すことは、決してしなかったのではないでしょうか。けれども、ペトロは、イエスのおことばに全面的に信頼して、答えました。「しかし、おことばですから、網をおろしてみましょう」と。

  教会は、ペトロのようにイエスのおことばに信頼して、絶えず新たなチャレンジをすべきではないでしょうか。

  昨年のクリスマスには、地域の人々にポスターやちらしを使って勇気をもって呼びかけました。見知らぬ人たちに、ちらしを配り、また一度も行ったことのない店にポスターを貼ることは、まさに沖に漕ぎ出したことだと思います。教会は、今まで以上に地元の人々との接点を積極的に切り拓くことが大切です。確かに、わたしたちは、ペトロと同じようにイエスの前にひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い(つみぶか)者なのです」と、告白しなければなりませんが、同時にすべてを捨てて生涯かけてイエスに忠実に従ってこそ、まさに福音を信じ、福音に生かされている(まこと)のキリスト者になれるのではないでしょうか。

  共同体ぐるみで、「福音を()べ伝えなさい」というイエスのご命令を、忠実に実践できるように共に祈りたいと思います。

ラファエッロ《奇跡の漁獲》

年間第4主日・C年(10.1.31

「諸国民の預言者として立てた」

キリストの預言職に与っている

今日(きょう)の第一朗読は、紀元前七世紀から六世紀にかけて南のユダ王国で活躍した預言者エレミヤが、預言者としての召命を受けたときのことを、極めて簡潔に報告しています。

   「わたしはあなたを母の胎内で造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」と。こんな不思議なことが、実際にわたしたちにも起こり得るのでしょうか。

   実は、パウロはその手紙の中で、預言者だけではなく、すべてのキリスト者は、生まれる前から神に選ばれるという召命をいただいていることを、次のように強調しています。

   「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子としようと、御心(みこころ)のままに前もってお定めになったのです」と(エフェソの信徒への手紙14節から5節まで)。

   つまり、預言者エレミヤの体験は、まさにすべてのキリスト者にも当てはまる預言職への召命だったのです。ですから、第二ヴァチカン公会議は、すべてのキリスト者が、洗礼を受けることによってキリストの預言職に与ることができることを、次のように教えています。

   「生活のあかしと、みことばの力とをもって、御父(おんちち)の国を宣言した偉大な預言者キリストは、栄光を完全に現すときが来るまで、ご自分の名と権能によって教える司祭たちだけではなく信徒によっても、ご自分の預言職を果たすのです」と(『教会憲章』35項)。それは、具体的には、日常生活のただ中で、キリストの福音を、まず生き方によってあかしするだけはなく、ことばと行いによって、キリストを一人でも多くの人々に伝える使命を実践することにほかなりません。ですから、パウロは次のように力強く勧めてくれます。

   「みことばを()べ伝えなさい。時節(じせつ)が良くても悪くても[これに]勤しみ(いそ)[口答えする者がいれば]云い聞かせ、誡め(いまし)なさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け(そむ)作り話(つくりばなし)のほうにそれて行くようになります。しかし、あなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の使命に励み、自分の務め(つと)を果たしなさい」と(テモテへの手紙二4章から5節)。

   特に、今日の日本の教会においては、まず子どもたちや若者たちに聖書をしっかり教えることを、最優先課題としなければなりません。例え、幼児洗礼を授け、そして小学生で初聖体を受させても、中学生になって部活や受験勉強などで主日のミサにも参加できないような現状です。今のままですと、信仰は次世代に果たして確実に伝わっていくのでしょうか。極めて、深刻な問題です。 

教会こそ愛の共同体であるべき

また、以前、間接的にですが、聞いたことがあります。「わたしたちの教会の今の実態では、キリスト教に関心のあるお友達を誘うこともできません。最近の教会の雰囲気は、対立や派閥争いのような醜い実態が表面化して来ているにも関わらず、司祭たちはそれを見て見ぬふりをしている。だから、もう維持費なども払う気持ちにはなれません」と。

   勿論、教会はその誕生から今日(こんにち)にいたるまで、どの時代においても決して完全な姿を示したことは一度もありませんでした。だからこそ、教会は世の終わりまで、絶えず刷新されなければならないのです。ですから、力の論理や能力主義などの世間的価値観を、教会の中に決して持ち込まないだけではなく、

まさに初心にかえってキリストの望まれる愛の共同体を、皆で心を合わせて育てることが肝心です。弟子たちと別れるに当たって、イエスは極めて大切なことについて念を押されました。

   「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合い愛なさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と(ヨハネ福音1334節から35節)。先日、近くの老舗(しにせ)を訪ねたとき、年配の店のご主人は、この教会が創立されて百年以上も経って()いることを全く知りませんでした。とにかく、教会の存在を地域に知らせる、まさに生きた看板は、共同体のメンバーが互いに愛し合い(まこと)の一致と交わりをあかしすること以外にはありません。

イエスを崖から突き落とそうとした故郷の人々

ところで、今日(きょう)の福音は、イエスの同郷人であるナザレの人たちが、最初に宣教活動を地元の会堂で始めたイエスを、歓迎するのではなく、なんと崖から突き落とそうとまでしたという恐ろしい出来事を伝えています。

   確かに、最初は、「イエスをほめ、その口から出る恵み深いことばに驚いた」のですが、結局、「この人はヨセフの子ではないか」と云って、イエスに、もろに躓いてしまったのです。実は、マルコの並行箇所ではその時の人々の反応を次のように詳しく伝えています。「『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は、いったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」と(マルコ福音62節から3節)。とにかく、なぜ、このように最初の「驚き」が、「つまずき」に終わってしまっただけではなく、ルカによればイエスが語ったことに対して「皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」のですか。

   その理由は、まず同郷人たちのイエスに対して抱いていた先入観と固定観念です。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」と、(あたま)っから決めつけて、目の前にいるイエスの実像を全く理解できなかったことが原因です。ですから、わたしたちも同じ過ちに陥る可能性は十分にあり得ます。つまり、わたしたちのイエスに対する具体的な反応を振り返ってみれば気がつくことではないでしょうか。例えば、日々、イエスの語られるおことばに耳を傾けなければ、遅かれ早かれイエスがどのようなお方(かた)のかが分からなくなってしまいます。あるいは、例え毎週ミサに忠実に参加していても、もし、聖書を通してイエスを体験的により深く理解していくことを怠るならば、結果的にイエスを自分の生活から追い出してしまうことになるのではないでしょうか。キリストの預言職に与っているからには、当然、日々イエスからみことばをいただき、それをまず身近な人たちと分かち合うことです。また、愛の共同体を皆で心を一つにしてしっかり育てていくことです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず。高ぶらない。礼を失せず(しっ)、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

 

年間第3主日(10.1.24

「この聖書のことばは、今日、実現した」

神のことばを聞いて泣いていた

   今日の第一朗読は、旧約聖書にある『ネヘミヤ記』からとられていますが、この書物は、第二神殿時代つまり、イスラエルの(おも)だった人たちが、バビロンの捕囚からようやく解放された時代の歴史を語っています。ちなみに第二神殿時代と云われるのは、紀元前587年にバビロニア帝国の軍隊によって破壊されたエルサレムの神殿を、帰国してから早速その再建にとりかかり515年に再び神殿を建て直すことができた時代だからです。

   とにかく、あの50年以上にわたる苦しみと屈辱の捕囚時代にこそ、実は、イスラエルの信仰はその試練のお陰で強められユダヤ教の土台を築くことができたのです。そして、今日(きょう)の朗読箇所からも分るように神のことばを、まさに信仰の原点の土台として確立したのです。それは、次のようなくだりからも、当時のイスラエルの民の神のことばに対する確固たる信仰を、うかがい知ることができます。

   「祭司エズラは、・・・理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた

・・・彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。・・・民は皆、律法のことばを聞いて泣いた」と。

   ちなみにここで云われている「律法」とは、旧約聖書にある『モーセ五書』といわれる、『創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記』のことです。

   このように、祭司エズラの聖書朗読が、まさにユダヤ人信仰共同体の(いしずえ)の一つなっていることは、極めて確かなことです。そこで、会衆が、みことばを聞いて感動して涙を流したのは、なぜでしょうか。それは、おそらく長い捕囚時代の(あと)なので、帰国後(きこくご)の自分たちの生活の再建のためにエネルギーを費やしてしまった結果、神のことばが生活に根差さないままに、それこそ生活に流されていたときに改めて聞いた神の言葉なので、まさに新たな感動がよみがえって来たのではないでしょうか。

   ちなみに、第二神殿時代の前の世紀に書かれたと思われる第二イザヤの預言に、次のようなくだりがあります。

   「わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」と(イザヤ書552節から3節)。 

体の分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合う

   次に、パウロは今日の第二朗読において、みことばによって育てられる信仰共同体の本来あるべき姿を、次のように(からだ)のイメージを使って説明してくれます。

   「皆一つの(からだ)となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。(からだ)は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。・・・そこで神は、ご自分の望みのままに、(からだ)に一つ一つの部分を置かれたのです。・・・だから、多くの部分があっても、一つの(からだ)なのです。目が手に向かって『お前は要らない()』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、(からだ)の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。・・・神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮しあっています」と。以前、聞いたことがあります、「日頃なにも問題がない時には、教会に行けるけど、ひとたび何か困ったこととか、辛い(つら)ことが起こったときには、教会には行きづらくなります」と。また、「親身になって話しを聞いてくれるのは信者さんではなくて、(ほか)の友人です」と。

   ですから、パウロは、さらに信者同士の関わり方がどうあるべきなのかを、極めてリアルに次のように強調しています。

   「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と。 

この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した 

   ところで、45年前に開催された第二ヴァチカン公会議が、最初に取り組んだのは典礼改革でした。そこで、聖書こそ典礼の源泉であることを、改めて確認しました。ですから、その『典礼憲章』において、特にミサにとって聖書がいかに重要であるかを、次のように説明しています。

   「典礼を祝うとき、聖書は最も重要である。聖書から朗読が行われ、説教によって説明される。聖書から詩編が歌われ、聖書の息吹と感動から典礼の祈りや祈願や聖歌がわき出し、また行為としるしが聖書からその意義を受けるのである。・・・

信者に神のことばの食卓の(とみ)を豊かに与えるために、聖書の宝庫を今まで以上に広く開かなければならない。・・・典礼の(こよみ)に従って、聖書に基づいて、信仰の神秘とキリスト教生活の諸原則を説明する説教を、典礼そのものの一部として、大いに奨励する」(245152項)。

ですから、今日(きょう)の福音も、ユダヤ教の会堂で行われた典礼で、イエスがたまたまイザヤ書を朗読なさり、その巻物を係の者に返され、厳か(おごそ)に次のように宣言なさいました。

「この聖書のことばは、今日(きょう)、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。そうです。みことばは、典礼においてこそ改めてことを起こすのです。つまり、聖書が典礼において朗読されるとき、イエスご自身が、実にその中に現存されるだけではなく、語られた内容を再びイエスご自身が実現させてくださるのです。

このことを、『朗読聖書の諸言(しょげん)』は、次のように説明しています。

「そのときこそ、何よりも神のことばに依存し、支えられる典礼祭儀そのものが新しい出来事になり、新しい解釈と新しい努力によって、ことばそのものが豊かになるのである。・・・実に、救いの働きは、神のことばによって絶え間なく新たにされ、拡充されるのであるが、それは典礼行為において完全な意味をもつものとなる」と(34項)。

わたしたちの共同体が、日々みことばによって養われ、育てられ、強められ、地域の人々にみことばを伝えていくことができるように、共に祈りたいと思います。

イスラエル第2神殿(模型・山浦玄嗣 氏作)

年間第2主日・C年(10.1.17

「栄光を現わされ、弟子たちは信じた」

年間にあたって 

   先週、わたしたちは「主の洗礼」を祝いました。そして、火曜日からまた教会歴の「年間」に入りました。教会歴で「年間」というのは、(ほか)の季節以外の期間のことで、キリストの救いの神秘の特別の出来事を祝う例えば「復活節」とか、「降誕節」とは異なり、いわば「キリストの神秘全体を追憶する季節」と言えましょう。ですから、今日が、「年間第2主日」となるのです。 

今日(きょう)のミサのテーマ 

   では、今日(きょう)の聖書朗読箇所から、あえてひとつのテーマに設定るならば「イエスの栄光が現わされ。霊の賜物で満たされた信仰共同体」となりましょうか。 

その栄光が現れ、弟子たちはイエスを信じた

そこで、まず、今日(きょう)の福音をもう一度少していねいに読み返してみましょう。今日の福音は、新約聖書にある四つの福音書の四番目の福音書つまり『ヨハネ福音書』からとられていますが、これが書かれたのは、おそらく一世紀(まつ)のヨハネ共同体であったろうと推測されます。ところで、この福音書では、「奇跡」という言葉の代わりに「しるし」という言葉が使われています。ですから、11節では、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って」となっています。それでは、今日の福音が語たる奇跡つまりしるしのメッセージは、一体何なのかを、ご一緒に考えてみましょう。

   まず、場所ですが、ガリラヤ地方のカナという町です。場面は、婚礼の披露宴です。そこには、弟子たちもマリアも一緒に招かれていました。結婚式の祝宴といえば、「所変われば品変わる」で、とにかく聖書が語る婚礼のお祝いは極めて盛大なもので、その祝宴は、長い時には、なんと二週間も続いたそうです。ところで、聖書において婚礼は、しばしば、神とイスラエルとの関係を夫婦の関係になぞらえるので、神の国の到来が婚礼の食卓として祝われるというイメージが用いられます(マタイ221-14参照)、たとえば、マタイ福音書の25章では、「十人のおとめ」のたとえが語られており、花婿の到着が遅くれたとき、ともし火の油を用意してなかった愚かなおとめたちは、主人から「わたしはお前を知らない」と怒鳴られ閉め出されたように、主が再び来られるその日、その時を知らないという救いの完成つまり終末のイメージとして使われています。

   とにかく、今日の福音が語る場面は、婚礼の祝宴です。ところで、とんだハプニングが起こったのです。何と、肝心のぶどう酒が、全くなくなってしまったというのです。これは。あくまで勝手な推測ですが、客に中に誰か大酒(おおざけ)飲みがいたのか、それとも、最初から準備したぶどう酒の量が足りなかったのでしょうか・・・とにかく、ぶどう酒がまったく切れてしまっていることに真っ先に気づいたのは、なんとマリアだったのです。これは。少し横道に逸れる()かも知れませんが、もしかして。わたしたちが抱えて(かか)いる困難に、真っ先に気づいてくださるのがマリアなのかも知れません。ですから、毎日ロザリオの一連でも唱えるべきではないでしょうか。

   ところで、マリアは、その責任者の世話役にではなく、真っ先にイエスに報告したのです。これこそ、「マリアの取り次ぎ」ではないでしょうか。

   けれども、ここで問題なのは、イエスの反応です。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と、一見(いっけん)、冷淡な拒絶とも受け止められるようなお言葉です。しかも、ご自分の母親に向かってなぜ「婦人よ」と改まった(あらた)言い方をなさったのでしょうか。ところで「婦人よ」といえば、イエスが十字架上でも、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言って、弟子のヨハネを指しています。とにかく、この婚礼の場面での、このイエスの呼び方には、おそらく重大な意味が込められていたのではないでしょうか。つまり、イエスがはっきりと付け加えられた「わたしの時は、まだ来ていません」という理由です。実は、この「わたしの時」あるいは「イエスの時」というのは、ヨハネ福音書では大切なキーワードの一つになっています。たとえば、12章の23節では「人の子が栄光を受ける時が来た」と宣言しておられます。つまり、「イエスの時」というのは、十字架に(はりつけ)にされる時、死者の中からあげられ、同時に天にあげられる時、つまり復活させられる時などがすべて同時に実現するときなのです。

   ですから、カナの婚礼の席上には、このときがまだ来ていなかったのです。ところが、マリアは強引(ごういん)に早速召使たちに命令します。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と。

   ところで、そこにすでに用意されていたのは、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ六つ」です。これは、当時の習慣によって、食卓に着く前と(あと)に特に手を洗うために使う水のことでしょうが、少し突っ込んだ視点で見るならば、結局、この水がめの水をユダヤ教のシンボルととらえるならば、イエスによって極上(ごくじょう)のブドウ酒に変えられてしまったということは、神の国の食卓を喜びで満たすことができるのは、最早(もはや)、ユダヤ教ではなくイエスご自身にほかならないということではないでしょうか

   とにかく、この婚礼の席上でイエスのその栄光を現されたのです。ですから、弟子たちが、イエスを信じることができたのです。 

霊の賜物に満たされた共同体を育てる

したがって、パウロは今日の第二朗読で、イエスのからだである教会は、復活の栄光に輝くキリストから聖霊を吹き入れられた共同体なので(ヨハネ20.22参照)、当然のことながら霊の賜物(たまもの)つまりギリシャ語ではカリスマが与えられていると次のように強調します。

   「賜物にはいろいろありますが。それをお与えになるのは同じ霊です。・・・一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。・・・

これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分けてくださるのです」と。ですから、教会においてこそ、それぞれがいただいている霊の賜物をまさに生かして合って共同体全体のために役立てなさいということです。各人の霊の賜物は、自分の(ふところ)にしまっておくものでもなく、まして自分の自慢にすることでもありませんすべて教会のために使ってくださいとことです。そうするならば、例え人数が少なくともまさに霊的に豊かな教会となれるのです。ですから、教会は、全人類の救いと一致のしるしであり道具として、この世界に奉仕する使命と責任が委ねられている信仰共同体にほかなりません。

   また、与えられたこの新しい一年、わたしたちの教会が聖霊の賜物で満たされ、世界に奉仕できる共同体に力強く成長できるようにともに祈りたいと思います。

 カナの婚宴(部分)パオロ・ヴェロネーゼ

主の洗礼・C年(10.1.10

「聖霊と火で洗礼を授けられて」

祝福に満ちた希望に生きる

新しい年の初めに当たって、パウロは今日(きょう)の第二朗読で、極めて適切な勧めの言葉を与えてくれます。

   まず、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」と。

そうです。わたしたちも、昨年、地域の人たちと共に、全人類の救い主イエス・キリストのご降誕を盛大に祝いました。この聖堂が、久々に二階を含めて満席なったのは、わたしたちが、クリスマスの本当の意味を、できるだけ多くの方々に、ポスターやチラシで知らせただけでなく、日頃からお付き合いのある方々に、声を掛けたことの努力の結果だったと思います。とにかく、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れた」のですから、救い主イエス・キリストを日々出会う人たちに知らせる大切な使命に忠実でなければなりません。ですから、クリスマス・シーズンはまさに福音宣教の絶好のチャンスだったのではないでしょうか。

   さらに、パウロは、力強く忠告してくれます。

   「その恵みは、わたしたちが不信心(ふしんじん)と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く(ぶか)生活するようにと教えている」と。ところで、「不信心」とは、どんな有様(ありさま)言うのでしょうか。それは、神を無視した生き方ではないでしょうか。或いは、自分中心の勝手な態度をとってしてしまうので、結果的に日々の生活で例えば祈ることを怠っても、別に気にならなくなってしまうような生き様でしょうか。

   さらに「現世的な欲望」を、かなぐり捨てなさいということは、一体どういうことなのでしょうか。例えば使徒ヨハネは、それこそ歯に衣を着せないでずばり次のように警告します。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」と(ヨハネの手紙一、2.15-17)。 

聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造り変える洗礼

さらに、パウロは、今日のテーマである洗礼について核心に触れ、次のように強調します。「わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちの行った義の(わざ)によってではなく、ご自身の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造り変える洗いを通して実現したのです」と。

   今日(きょう)、わたしたちは「イエスの洗礼」を、全世界の教会と心を一つにして祝っていますが、それは、同時に、わたしたちの洗礼についての理解を深める新たな恵みの日なのです。

   ですから、パウロは、洗礼の本質を次のように力説するのです。つまり、「わたしたちの救いは、洗礼において、聖霊によって新しく生まれ変わり、新たに創造されることなのです」と(ローマ6.3-11参照)。つまり、洗礼の秘跡は、まさに生涯かけて生きるすばらしい恵みなのです。それは、当然日々の生き方において、それこそ態度で示すべきなのです。つまり、洗礼によってわたしたちは決定的にキリストに結ばれ、古い自分つまり罪に死んで、神の新しいいのちに生まれ変わる体験にほかなりません。さらに、パウロは、次のような適切な勧めの言葉を与えてくれます。

   「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向っている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた(つく)新しい人を身に着け、真理に基づいた(もと)正しく清い生活を送るようにしなければなりません」と(エフェソ4.22-24)。 

聖霊と火によって授かられたわたしたちの洗礼

ところで、今日の福音では、洗礼者ヨハネの洗礼とイエスが、聖霊と火によって授けてくださる洗礼とをはっきりと区別しています。ですから、イエスの先駆者であるヨハネは、説明します。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物(はきもの)のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。

   すなわち、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネが授けていたのは、イエスの洗礼を受けるためのいわば準備の洗礼だったのです。つまり、ヨハネの「水による洗礼」は、聖霊によって救いがもたらされる「イエスの洗礼」への言わば準備段階としての「罪からの改心」としての「悔い改めの洗礼」だったのです(マルコ1.4参照)。

   ですから、」イエスの洗礼こそ、わたしたちに聖霊をも注ぎ救いの完成に導く秘跡なのです。ということは、福音記者ルカは、「聖霊と火で授ける洗礼」こそが、イエスのわたしたちに授けてくださる洗礼なので、信仰生活において如何に聖霊の働きがなくてはならないかを強調していると言えましょう。

   ところで、実は、イエスもこのヨハネから洗礼を受けられたのです。なぜでしょうか。どうして、悔い改めの必要が全くないお方イエスまでもが、このヨハネから洗礼を受けなければならなかったのですか。その答えは、マタイの並行箇所で、イエスご自身が、次のように説明なさいます。

   マタイによれば、イエスがヨハネから洗礼を受けられることを、実は、ヨハネ自身が、思いとどまらせようとして、イエスに(めん)と向って次のように言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と。それに対して、イエスはお答えなりました。「今は、止めないで欲しい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と(マタイ3.15)。まさに、わたしたちとまったく同じ立場に立たれたのです。

   ところが、「イエスが、洗礼受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降り(くだ)、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う(かな)者』という声が、天から聞こえた」のです。

   ここで言われている「天が開かれる」とは、ユダヤ黙示文学つまり、神の働きを極めて幻想的なイメージで描こうとする文学類型においては、神の隠れた神秘を神ご自身が明らかに示してくださることを意味します。また、「鳩」のイメージは、イスラエルの民を表します。つまり、救われる人々のシンボルなのです。ですから、イエスが鳩によって象徴されるものとして聖霊を受けられてということは、まさに救われるべきイエスラエルの民の代表者として聖霊を受けたことになるのです。つまり、イエスは、イスラエルの民を代表して彼らを導く聖霊とその特別な力を、天の御父から授かったということではないでしょうか。

   また、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の御父の声は、まさに御父の御子に対する特別な愛を表しています。つまり、イエスを、多くの人々から特定な者として選び出した御父の愛のことです。

   ですから、わたしたちもイエスと同じように、神から特別に選ばれた聖なる民つまり教会であるので、ペトロは次のように説明します。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そうして、聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的な<いけにえ>を、イエス・キリストを通してささげない。・・・あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった力ある(わざ)、あなたがたが広く伝えるためなのです」と(ペトロ一、2.5-9)。

主の洗礼

主の公現(10.1.3

 「異邦人を照らす光」

今日の祭日の由来 

   まず、初めに今日の祭日の由来について少し説明したいと思います。

実は、すでに、四世紀の後半にはこの祭日は、東方教会だけでなく西方教会にも普及していました。例えば、ローマでは、降誕祭と並行して公現祭が祝われるようになりました。つまり、もともとは16日にベツレヘムの真夜中のミサで、まずイエスの誕生を祝い、その同じ日にそこから今度はエルサレムまで行進行列を行ない、そこで改めて公現を祝っていたのです。

その後()今日(こんにち)のように、降誕祭とは切り離して別個に「主の公現」を祝うようになったのです。

   しかも、マタイ福音書に基づいて、占星術(せんせいじゅつ)の学者たちの礼拝がテーマになり、教父(きょうふ)オリゲネス(185-254年)が、これら学者たちを、三つの贈物にちなんで三人としたのです。(のち)にこの三人の学者たちは、王にまつりあげられバルタザール、メルキオール、カスパールと呼ばれるようになりました。さらに、彼らのなんと(せい)遺物(いぶつ)1164723日にイタリアのミラノからドイツのケルンに移されたのを()に、三人の王に対する崇敬(すうけい)がドイツを中心に大変盛んになり今日に至っています。ですから、公現祭が、これら三人の聖人のお祭りという特徴を帯びるようになりました。けれども、「主の公現」の出来事そのものを祝うのが、今日の祭日の本来の意義であることは言うまでもありません。

 旧約の預言が実現した

    前置きは、このくらいにして、早速、第一朗読を手がかりに、今日の祭日の意義を、少し探って見たいと思います。

   今日の朗読は、便宜上第三イザヤ(つまり56章から66章まで)と呼ばれる箇所から採られておりますが、その中心部に当たる60章から62章の、実は冒頭に当たります。ところでその時代背景ですが、紀元前六世紀後半、すでに預言されていた神の栄光はさっぱり現れそうもないという時代です。ですから、そのような厳しい現実に失望し、結果的に神への信頼までもが弱まり始め、とうとう、人々は自分勝手な生き方に傾いていったのです。そのような状況のただ中で、第三イザヤは、「主の栄光」がシオンを満たす時が到来すると叫び、人々の目をなんとか神に向けさせようとしていたのです。

   ですから、今日の朗読で神が「あなた」と呼びかける相手は、言うまでもなくシオンつまりエルサレムです。今は確かにこのシオンは、暗黒(あんこく)の「闇」に沈んでいますが、必ず「主の栄光」があたかもスポットライトのようにシオンを照らし出すというのです。とにかく、この光を受けたシオンは、今度は広く外に向けてこの光を、力強く輝かせることができるようになると言うのです。こうして、諸国の民や王たちまでもが、シオンへと引き寄せられるという希望に満ちた預言なのです。

   ここで、この預言を今日(こんにち)の状況に当てはめてみましょう。

それは、まさに、世界的な規模で、極めて深刻な経済的危機やさまざまの深刻な問題の暗闇(くらやみ)が重く覆っている今日(こんにち)この世界のために、永遠のみことであるイエス・キリストがまた改めで生まれてくださったということではないですか。ですから、この偉大な救いの神秘を、すでに一世紀末、ヨハネ共同体が賛美しました。「<みことば>の内に<いのち>があった。この<いのち>は人間を照らす<光>であった。光は、闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。・・・すべての人を照らす(まこと)の光はこの世に来た。・・・<みことば>は人間となり、我々の間に住むようになった。我々はこの(かた)の栄光を見た。父のもとから来た独り子としての 栄光である。独り子は恵みと真理に満ちている」と(『新約聖書』フランシスコ会、ヨハネ1.4-14)。 

異邦人を照らす光

ところで、第二ヴァチカン公会議の重要な柱である『教会憲章』も、「キリストは諸民族の光であるから」という冒頭の言葉で始まっていますが、今日(きょう)の第二朗読で、パウロは、隠されていた神の救いの神秘が、キリストにおいて決定的に異邦人にも示されたことを、次のように強調します。「秘められた計画が啓示によって、わたしたちに知らされました。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでした。今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じからだに属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」と。

   したがって、すべての人を照らす光であるイエス・キリストの誕生を祝うということは、わたしたちの間つまりお互いの人間関係のただ中に来られてイエスを一人でも多くの人々に告げ知らせるためなのです。

   ベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子イエスを、最初に発見したのは、羊飼いたちですが、彼らはその出来事を早速、人々に告げ知らせました(ルカ2.15-18参照)。わたしたちも、幼子イエスを、日々出会う人々に知らせましたか。毎年、殆どの日本人がクリスマスを迎えていますが、その本当の内容を全く分からないままそれを続けているとしたら、その責任はわたしたち信者にあるのではないでしょうか。

   実は、パウロ六世が、その使徒的勧告『現代世界における福音化』で、次のように力説しておられます。「福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く根ざした最も特有の恵みであり、召命です。教会はまさに福音を()べ伝えるために存在しています。つまり、神のことばを説き、教え、恵みを与える手段となり、罪人を神に立ちかえらせ、キリストの死と栄光の記念であるミサ聖祭によってキリストの<いけにえ>を永続させるために教会は、存在しているのです」と(14項)。 

幼子を拝み、黄金、(にゅう)(こう)(もつ)(やく)献げた(ささ)

ところで、今日の福音は、東方の占星術(せんせいじ)の学者たちが、不思議な星に導かれ、とうとう幼子イエスを見つけ出し、早速、「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈りものとして献げた」と報告しています。では、わたしたちは、幼子イエスに何をお献げするのでしょうか。このことについてパウロは、適切な助言をしてくれます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる・生ける<いけにえ>として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神のみ心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と(ロマ12.1-2)。

   このパウロの勧告を、この新しい年の日々の生活において、忠実に実践できるよう共に祈りたいと思います。

東方三博士の礼拝 ジョット

聖家族・C年(09.12.27

「神と人とに愛された」

聖家族の祝日 

   教会は、盛大の祭日は、伝統的に八日間かけて祝ますが、降誕祭の八日間の(なか)の日曜日を「聖家族の日」として特別に祝います。実は、この祝日は、比較的最近のことで、もともとは、十九世紀のカナダの教会の伝統に由来します。また、教皇レオ十三世は、この祝日の強力な支持者でした。その後(そのご)、ピオ十世は、1911年にこの祝日を暫定的に決め、そして1921年には教皇ベネディクト十五世が改めて導入しました。とにかく、この祝日のテーマは、「聖家族を模範するキリスト者の家族」であります。

   では、早速、今日の典礼の聖書朗読箇所をてがかりに、キリスト者の家庭のあり方について、少し考えてみましょう。

 この子を主に委ねます

    まず、今日の第一朗読は、サムエル記から採られて()いますが、イスラエルに王制が導入される前の指導者であった最後の士師(しし)サムエルの母親ハンナが主人公になっています。実は、夫エルカナにはもう一人の妻がおり、その子どもたちもいたのですが、このハンナは、主によって胎が閉ざされて()いたため、子宝には恵まれず、そのため悩み多い家庭生活を送っていました。そして、恒例(こうれい)の家族そろって神殿に詣で(もう)、礼拝し<いけにえ>をささげたときでした。その<いけにえ>の食事の(あと)、一人「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いて」いました。そして、誓いを立てたのです。「万軍(ばんぐん)の主よ、はしための苦しみをご覧ください。はしために御心(みこころ)を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を(しゅ)におささげし、その子の(あたま)には決してかみそりを当てません」と。ところが、ハンナが主の御前(みまえ)であまりにも長く祈っているので、祭司エリは、てっきり彼女が酒に酔って()いるのだと勘違い(かんちが)し、注意しました。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」と。それに対して、ハンナは答えます。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前(みまえ)に心からの願いを注ぎ出しておりました」と。そこで、祭司エリは優しく言いました。「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願う(こいねがう)ことをかなえてくださるように」と(サムエル記上1.1-19参照)。それから、今日の朗読箇所が始まるのです。

   わたしたちの家族にも、悩みや苦しみは付きまといます。その時、このハンナのようにひたすら神に寄りすがってその嘆きをすべて注ぎだすなら、必ず願いはかなえられるのではないでしょうか。なぜなら、わたしたちの「願い」が、神の「願い」にかなうものであれば、それは必ず実現するからです。このことは、今日の朗読箇所の27節からの次のようなくだりでよく分かります。

   「わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です」と。

   このように、神とハンナとの間を「願い」が行き来しています。ハンナは、母親としての素朴な「願い」を神に向け、神がそれを聞き届けてくださると、今度は神の「願い」に従って、サムエルを神にささげ、こうして「願われた者」が誕生したのです。このような「願い」の行き来の中でこそ、わたしたちの信仰が育まれる(はぐく)のではないでしょうか。とにかく、家庭こそ信仰を育てる大切な場なのです。

 どうしてわたしを捜したのですか

    ところで、今日の福音は、聖家族にも親子の意見の対立があったことを、あからさまに伝えています。イエスの時代には、律法の規定に従って過越祭には毎年(まいとし)エルサレムへの巡礼に参加していました。実は、この掟を守る義務は、満十三歳からですが、イエスの両親は、十二歳のイエスを連れてエルサレムへの旅をしたのでした。ところが、思わぬことが起こりました。八日間続いた過越祭が終わって、いざ帰路(きろ)についたとき、少年イエスは両親と(べつ)行動をとり、一人エルサレムの残ったのです。ところが、両親はそのことに全く気づきませんでした。つまり、イエスは(ほか)のグループの中にいると思い込んでいたのです。ですから、一日の道のりを歩いたとき、初めてイエスがいないことに気づき、さっそく親類や知人の間を捜し回りましたが、結局、見つけることができませんでした。ですから、両親はやむを得ずエルサレムに引き返しました。そして、やっと三日目になって、「イエスが神殿の境内でなんと学者たちの真ん中に座り、

話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」のです。しかも、イエスの学者たちとのやり取りを「聞いていた人たちは皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」のです。まさに、「親の心子知らず」です。ですから、まず母親マリアは、きびしくイエスを叱りました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と。それに対して、まったく以外な答えが返って来ました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と。イエスの父の家は、ナザレにあるのではないですか。それなのに、なぜエルサレムの神殿がイエスの父の家なのでしょうか。つまり、このイエスの以外な答えによって、初めてイエスと天の父との特別な関係が明らかになったのです。けれども、両親はそのときは、まだこのイエスの言葉の意味を理解することができませんでした。ですから、マリアは「これらのことをすべて心の納めていた」のです。

   どの家族にも親子の意見の食い違いや、対立などの問題が起こり得ます。そこで、大切なのは、お互いがそれぞれの自己主張を通そうとするのではなく、

一体神はこれらの問題をどのように受け止められておられるのか、まさに神の御心を共に聞き質す(ききただす)ことが大切ではないでしょうか。乙女マリアも、天使ガブリエルからのお告げの内容が最初はよく理解できず、「どうして、そのことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と、しっかり聞き質しました(ただ)。また、このイエスの理解できなかった行動のすべてを、心に納めで思い巡らし、天の御父の御心を行いました。

   そこで、わたしたちのそれぞれの家族においても、次のようなパウロの勧めの言葉を、忠実に実践するならば、幸せな恵みあふれる家庭を築いていくことができるのではないでしょうか。

   「自分の体を神に喜ばれる聖なる・生ける<いけにえ>として献げ(ささ)なさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と(ローマ12.1-2)。

神殿で学者たちと議論する少年イエス

待降節第4主日・C年(09.12.20

「主のおっしゃったことは必ず実現する」

彼こそ、まさしく平和である

いよいよ待降節も最後の週になりました。ですから、主をふさわしくお迎えするために、準備の締めくくりのときです。

   早速、今日の聖書朗読箇所を手がかりに、今週、一体どのような心構え(こころがま)が必要なのかを、共同体として確認したいと思います。

   先ず、今日の第一朗読ですが、預言者ミカの(くち)をとおして、わたしたちが待ち望んでいるメシアがどのようなお方なのかを、改めて(あらた)教えてくれます。

   「エフラタのベツレヘムよ お前はユダ族の氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る」と。実は、サムエル記上1712節によると、ダビデの父エッサイは、「ベツレヘム出身のエフラタ人」なのです。紀元前8世紀後半に南王国で預言活動を行っていたミカは、当時のエルサレムの現状に失望し、ダビデ王の生まれた町ベツレヘムに目を向けます。そこに住むエフラタ族は、ここで「お前はユダ族の氏族の中でいと小さき者」と言われているとおり、戦争の際には、千人隊(せんにんたい)を組むこともできないほどの小さな氏族(しぞく)でした。ところが、このいとも小さな氏族から、なんとダビデの血筋に属する理想の王としてのメシアが出ると言う預言であります。

   この王は、地上の権力に頼るのではなく、ひたすら「主の力」と「主の御名(みな)威厳(いげん)」(3節)によって群れを養うのです。つまり、この小さな氏族から出るこの王は、群れを決して過酷に支配するようなことはせず、むしろ手厚く養う良い羊飼いなのです。したがって、わたしたちはまさに「安らかに住まう」ことができるのです。

   さらに、このメシアの出生(しゅっしょう)は、実は「古く、永遠の昔にさかのぼる」のです。すなわち、神の救いのご計画は永遠の昔にまでさかのぼるほど古く、神は必ずメシアを遣わすと言う強い確信が示されています。そこで、この救いの計画を実現させるために、メシアは小さな部族から生まれますが、その「彼は大いなる者となります」。なぜなら、このメシアは、この地上の権力によるのではなく、神なる主の力により頼むので、かえって、その力を「地の果てに」まで及ぼすことができるのです。したがって、「彼こそ、まさしく平和であります。」つまり、このメシアこそ、この地上に(まこと)の平和をもたらしてくださる方にほかなりません。 

お言葉どおり、この身になりますように

次に、今日の福音には、二人の女性が登場します。それは、この福音記者ルカが描くご降誕の出来事の特徴で、女性に重要な役柄が与えられているからです。まず、マリアですが、同じルカ福音書の一章で天使ガブリエルからお告げを受ける次のような場面で初めて登場します。

   「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人の許婚(いいなずけ)であるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。・・・聖霊があなたに降り(くだ)、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊(ふにん)の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にはできないことは何一つない」と(26節〜37節)。

   まさに救い主の母親になるという重大な役割が告げられたのです。この神からの尊い使命が与えられると言うお告げに対して、マリアはどのように応えたのでしょうか。このお告げの内容を、真剣に受け止めることによって、次のように見事な信仰告白をいたしました。

   「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と(38節)。ここで言われている「主のはしため」というのは、たとえば詩編123編の次のようなくだりを背景にした言い回しと考えられます。

   「目を上げて()わたしはあなたを仰ぎみます。天にいます(かた)よ。

ご覧ください、(しもべ)が主人の手に目を注ぎ はしためが女主人の手に目を注ぐように わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 憐れみを待ちます」と。つまり、マリアの神に対する基本的姿勢は、まさに神の憐れみに心から信頼するということなのです。ですから、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、天使をとおして告げられた神のみことばに自分自身を全面的に委ねきる(ゆだ)ことができたのです。 

主がおっしゃったことは必ず実現する

次に登場するのが、マリアの親類でイエスの先駆者洗礼者ヨハネの母親エリザベトです。このエリザベトは、夫ザカリアの不信仰にもかかわらず、天使ガブリエルのお告げどおり、ヨハネを身ごもってすでに六ヶ月経って(たっ)いたのです。

   このエリザベトが、マリアを自分の家に迎えたときの様子が、今日の福音です。とにかく、「マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」のです。すでに、天使ガブリエルのお告げを通して聖霊と恵みに満たされたマリアは、その喜びをエリザベトと分かち合うために、遠いナザレからユダの町へ、山や丘を越えて恐らく、三、四日かかる旅路を急いだのです。

   このマリアのエリザベトに対する挨拶は、まさに神の祝福を運ぶ手立て(てだ)となっています。ですから、「マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」のです。なぜ、そのような不思議な体験があったのでしょうか。それは取りも直さず、エリザベトがマリアの挨拶を受けたとき、まさに聖霊に満たされたからではないでしょうか。なぜなら、マリアはすでにお告げの場面で、「聖霊が降り(くだ)、いと高き方の力で包まれた」ので、そのすばらしい恵みを、エリザベトにも豊かに分かち合うことができたのです。

   ですから、エリザベトは、聖霊に満たされて、叫びました。

   「あなたは女に中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されていいます。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょうか」と。

   ここで、エリザベトがマリアを「わたしの主のお母さま」と呼ぶことができたこと自体すでに、聖霊の働きがあったからにほかなりません(コリント一、12.3参照)。そして、エリザベトは極めて大切な発言をします。

   「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう」と。マリアの幸せの(みなもと)は、このみことばに対する信仰です。ですから、「お言葉どおり、この身になりますように」と、信仰告白ができたのです。

   このように、ルカは、マリアをキリスト者の模範として描こうとしているのです。ですから、次のような場面をも伝えています。

   「ある女が群集の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した(やど)(たい)、あなたが吸った乳房(ちぶさ)は。』しかし、イエスは言われた。むしろ、幸いなのは神のことばを聞き、それを守る人である』と」(ルカ11.27-28)。

   待降節を締めくくるに当たり共同体全体が聖霊に満たされ、ますますみことばに対する信仰が深まるように共に祈りたいと思います。

受胎告知 ボッティチェリ

待降節第3主日・C年(09.12.13

「主において常に喜びなさい」

イスラエルの王なる主はお前の中におられる

   待降節はいよいよ後半に入り、主が直ぐ(そば)に来ているので、喜びに満たされて待つことができることを、今日の典礼は意識させます。ですから、この待降節第3主日は「喜びの主日」とも言われます。(ちなみに、今日のろうそくの色は、喜びの色になっています。)

   では、早速、今日の第一朗読を読み返し、わたしたちに与えられる喜びの源を確認して見たいと思います。

   今日の箇所は、ゼファニアの預言から採られていますが、この預言者が活躍したのは紀元前七世紀のヨシュア王の激動の転換期の時代です。まさに、時代が激しく移り変わっていく最中(さなか)に、この預言者は、天使たちの次のような言葉を伝えたのです。

   「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜びおどれ」と。

   ここで言われている「娘シオン」とは、預言者たちが好んで使う言い回しで、エルサレムとその住民を指し、民に対する神の深い愛情を表しています。

   では、なぜ喜ぶことができるのでしょうか。その理由は、極めて明らかです。それは、主なる神がイスラエルに対する裁きを退け、敵を追い払われることによって、まさにイスラエルの只中におられるからです。

   ですから、わたしたちは、災いを恐れることは全くなくなったのです。

   とにかく、このような喜ばしい天使のことばを聞かされたので、わたしたちは人々に向って次のように叫ぶことができるのです。

   「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れる()な。お前の主なる神は お前の只中におられ 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」と。 

主において常によろこびなさい

   そして、今日の第二朗読は、パウロが西暦54年後半にエフェソの獄中からフィリピの教会に宛てた手紙から採られています。自分が獄中にあっても、「主において常に喜びなさい」と力強く励ますことができたのはなぜでしょうか。しかも、一時的(いちじてき)にではなく、「常に」喜びの状態に留まる(とど)ようにという勧めです。それは、パウロがはっきりと念を押しているように、(ほか)でもない「主において」初めて出来ることなのです。つまり、わたしたちがしっかり(しゅ)に結ばれているならば、常に喜びのうちに留まる(とど)ことが出来るのです。

   このことについて、実は、イエスご自身が、弟子たちと別れる際に切々と語ってくださいました。

   「わたしの内に留まって(とど)いなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内に留まって(とど)いる。・・・わたしはぶどうの木であり、あなたたちは枝である。人がわたしの内に留まって(とど)おり、わたしもその人に内に留まって(とど)いるなら、その人は多くの実を結ぶ。・・・わたしの言葉が、あなたたにの内に留まって(とど)いるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。・・・父がわたしを愛してこられたように、わたしもあなたたちを愛してきた。わたしの愛に包まれて常に生きなさい。あなたたちがわたしの掟を守るなら、わたしの愛に包まれて 常に生きることになる。・・・わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたたちのものとなり、あなたたちの喜びが満ち溢れるためである」と(ヨハネ15.4-11)。 

その方は、聖霊と火であなたたちの洗礼をお授けになる 

   ところで、今日の福音に登場するイエスの先駆者である洗礼者ヨハネは、群集に向ってイエスを迎えるために何をすればよいのかを、極めて具体的に教えています。とにかく、人々は真剣にヨハネに尋ねました。「わたしたちはどうすればよいのですか」と。それに対して、ヨハネは、答えます。

  「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と。

  「規定以上のものは取り立てるな」と。

  「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と。

   つまり、主を自分の生活に只中にお迎えするのにふさわしい生き方とは、例えば何か特別な厳しい修行(しゅぎょう)積む()ようなことではなく、むしろ日々の平凡な生活の中で、まず愛の実践に励むこと、そのためには、自己中心の生き方をキリスト中心の生き方に根本的な姿勢転換をすることにほかなりません。

   なぜなら、わたしたちは「聖霊と火で」イエスから洗礼を受けているからです。ですから、洗礼者ヨハネは、次のようにはっきりと教えてくれます。

   「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。

   確かに、洗礼者ヨハネは、イエスを迎える準備として悔い改めの洗礼を、ヨルダン川で大勢の人々に授けていました。そして、イエスご自身も、このヨハネから洗礼を受けらましたが、その時、イエスに上に聖霊が鳩のように降った(くだ)のです(ルカ3.22,参照)。また、聖霊降臨は、エルサレムにマリアを中心に集まっていた弟子たち一人ひとりの上に炎のような舌のかたちで聖霊が降った出来事でした。

   とにかく、わたしたちが受けた洗礼は、イエスご自身の次のようなご命令に基づいて授けられました。

   「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と(マタイ28.18-20)。

   聖霊と火で授けられた洗礼の恵みこそ、まさに生涯かけて生きるすばらしい恵みです。それは、キリストにしっかり結ばれて新しいいのちを生きる者とされたからです。つまり、日々罪に死んで、復活のいのちの生まれ変わることができるのです。このキリスト者の生き方を忠実に実践するからこそ、常に喜びの状態にとどまることができるのです。つまり、ぶどうの木であるイエスの愛にいつも包まれているので、その枝であるわたしたちにイエスの喜びが豊かに伝わって来るのです。

   主が来られるのを目前に控えて、主イエスとの結びつきをより一層強めることとができるように共に祈りたいと思います。

 

待降節第主日・C年(09.12.6

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」

栄光で永遠に飾れ 

   待降節は、救い主の降誕を待ち望むだけでなく、救いの完成の(あかつき)栄光に包まれて再び来られる王であるキリストをお迎えする準備の時期でもあります。イエスは、すでに荘厳に宣言なさいました。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊(やぎ)を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい』と」(マタイ25.31-34)。

   ところで、今日の第一朗読は、神の栄光の訪れを美しく預言しております。この預言の歴史的背景ですが、紀元前587年に、イスラエル王国は、強国バビロニア帝国に滅ぼされ、王を初め(おも)だった人々がバビロニア帝国の首都であるバビロンの近郊に強制移住させられていた捕囚時代が始まったときでした。したがって、このバルクの預言は、捕囚地バビロンから、預言者エレミヤの書記であったバルクが、故国のエルサレムに書き送ったものとされています。

   「エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。神から与えられる義の衣を身にまとい、(あたま)永遠なる者の栄光の冠をつけよ」と。

   実は、今日の箇所の前に語られた預言は、次ぎのように要約できます。我々は「神なる主に背き、主を軽んじて、御声(みこえ)に耳をかさなかった」ので、すでに預言者をとおして語られていた警告どおり、「災いと呪い」が現実となったけれども(1.15-22参照)、我々に「災いをもたらされた(かた)が、・・・救い、永遠の喜びを与えてくださる」と(4.25-29参照)。

   ですから、「エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ」と、呼びかけているのです。つまり、エルサレムはその住民が捕囚地に連れ去られたので、あたかも子を亡くした母親のように「悲しみと不幸の衣」を着ていたけれど、今やそれを脱ぎ捨て、神が与える「義の衣」に着替え「栄光の冠」をつけることができるのです。なぜなら、東のバビロンから捕囚民が、いよいよエルサレムへの帰還を始めたからです。彼らは、「徒歩でエルサレムのもとを去った」けれど、今度は「神が彼らを、玉座につく王のように高く上げ、栄光のうちにエルサレムに連れ戻される」からです。しかも、神は「すべての高い山、果てしなく続く丘」には、「低くなれ」と命じ、「谷」には、「埋まって平地になれ」と命じられるのです。さらに、神の命令のよって木々が「木陰(こかげ)をつくり」、荒れ野の強い日差し(ひざ)からご自分の民を守られるからです。こうして、捕囚民は、捕囚地バビロンから、エルサレムへの旅路(たびじ)が、見事に整備されるので、安心して歩みを進めることができるからです。まさに神による解放の預言であります。 

主の道を整え、その道筋(みちすじ)をまっすぐにせよ 

   ところで、今日の福音には洗礼者ヨハネが登場し、メシアを迎える準備をするようにと呼びかけます。そこで福音記者ルカは、イザヤの預言のことばを引用しこのヨハネの役割を説明しています。つまり、洗礼者ヨハネこそ、イザヤの言葉にある「荒れ野で叫ぶ声」であり、その使命は「主の道を整えよ」と呼びかけることだからです。

   「神のことばが荒れ野でザカリアの子ヨハネに降ったのは」、今から二千年以上前のローマ皇帝ティベリウスの治世(ちせい)の十五年、「アンナスとカイアファが大祭司であったとき」です。このように当時の政治上の権力者と宗教上の権力者の名前を挙げることによって、「神のことば」が歴史上の出来事になったことを確認しています。「神のことば」は、この世の権力者の上にではなく、荒れ野で叫んでいた洗礼者ヨハネに降った(くだ)のです。ヨハネは旧約の預言者エリアの生まれ代わりと思われるようないでたちで、人々に回心を呼びかけ、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。福音記者マタイによると、洗礼者ヨハネは、「らくだの()(ごろも)を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物とし、・・・ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、叫びました。『(まむし)に子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ』と(マタイ3.4-8)。

   一方、福音記者ルカは、このような厳しいヨハネの姿を描くのではなく、もっぱらイザヤの言葉によって彼の使命を説明することにとどめています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道をまっすぐにせよ・・・』」と。今日の福音の文脈では、この「主の道を整える」とは、具体的にヨハネが授けていた「悔い改めの洗礼」を受けることにほかなりませんが、わたしたちに当てはめた場合は、主をお迎えする道を準備する、つまり自分の生活の中に実際に主が来られるように、妨げになっていることをすべて取り除くということではないでしょうか。つまり、気をつけないと生活に流されてしまい、イエス不在の生活になっているのではないかという反省です。「神のことばがヨハネに降った(くだ)」ように、実は、日々の生活の只中で、主はわたしたち一人ひとりに語りかけておられるはずです。具体的には、日々聖書を開き、イエスのおことばを深く味わい、新たな力をいただくことができるということです。ですから、イエスは、種まきのたとえで、どのような心構えで日々みことばを生きるべきかを、はっきりと教えてくださいました。

   「道端(みちばた)のものとは、みことばを聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心からみことばを奪い去る人たちである。石地のものとは、みことばを喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭う()と身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、みことばを聞くが、途中で人生の思い煩い(おもいわずらい)や富や快楽に覆い(おお)ふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地におちたのは、立派な善い心でみことばを聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と(ルカ8.12-15)。

   イザヤが叫んだ、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とは、日々の生活において、みことばを聞く妨げになる思い煩いや忙しさを取り除き、心を開き、みことばに耳を傾けることを実行することです。特に、この待降節中、各家庭で聖書を分かち合うことによって、主をお迎え準備をすることではないでしょうか

   最後に典礼聖歌111番の次のようなことばを紹介します。

「主は来られる、すぐに来られる。われらを平和に導くために。

   救いは神を畏れる人に近く 栄光はわたしたちの地に住む。

共同体ぐるみで、主を迎える為のふさわしい準備ができるように、共に祈りたいと思います。

洗礼者ヨハネ

 

待降節第1主日・C年(09.11.29

「人の子の前に立つことができるように」

待降節に当たって 

   今日(きょう)から、新しい教会暦(きょうかいれき)のC年が始まり、待降節に入りました。この待降節には、二つの意味があります。まず、メシアであるイエス・キリストの第一の来臨(らいりん)つまり、二千前の誕生を思い起こし降誕祭を準備することです。また、同時に、救いの完成の(あかつき)に栄光に包まれて再び来られるキリストを待ち望む時期であります。この二つの目的から、待降節は愛と喜びに包まれたまさに待望のときであることを実感しなければなりません。そのために、この期間中、特に典礼において朗読される聖書の箇所を手がかりに、共同体ぐるみで心の準備に励みたいと思います。 

公平と正義をもって 

   では、早速、今日の第一朗読を読み返して見ましょう。この箇所は、紀元前627年から585年にかけて南のユダ王国で活躍した預言者エレミヤの預言から採られて()います。当時、すでに北のイスラエル王国は、強国アッシリアに滅ぼされ、またユダ王国もバビロニア帝国に滅ぼされ戦勝国の首都バビロンの近郊に王を初め(おも)だった人たちが強制移住させられていた捕囚時代でした。

   このようにイスラエルの歴史にとって極めて悲惨な時に、エレミヤが、なんと救い主の到来を預言したのです。ですから、今日の箇所の14節、15節さらに16節で「その()」を三回も繰り返すことによって、「将来まさに起ろうとしていることの荘厳な宣言」を行っています。「その()」とは、歴史のひとコマとしてやって来る普通の日ではありません。それは、特別の日であることが、強調されています。なぜなら、「その()に起こる出来事が、「イスラエルの家とユダの家にわたしが語った良い言葉を立ち上がらせる」からです。つまり、神が語った「良い言葉」が、出来事になるからです。まさに救いの絶好のチャンスが訪れるのです。しかもその出来事とは、「ダビデのために義の若枝(わかえだ)生え出でさせる(はえい)」ことなのです。この「若枝」こそ、ダビデの子孫から生まれるメシア王を指します。

   神が、この「若枝を生え出でさせる」のは、「ダビデのため」ですが、すでに神は、ダビデに向って「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに固く据えられる」と約束しています(サムエル記下7.16)。ですから、この約束を果たすために、神は「義の枝」と呼ばれるメシア王を、わたしたちに与えてくださるのです。

   そして、このメシア王の使命は、「公平を、そして義をつくる」ことなのです。とにかく、神が生え出でさせた若枝がつくる公平と義なので、神の意思にそぐわない公平や義であるはずがありません。 

わたしたちの心を強めてください 

   ところで、今日の第二朗読で、パウロはテサロニケの信徒が、どのような心構えで、主の再臨(さいりん)を待ち望めばよいのかを、願い求めています。

   「そして、わたしたちの主イエスが、ご自分に属するすべの聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前(みまえ)で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」と。

   この「聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」とは、12節の「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」ということにほかなりません。なぜなら、わたしたちが聖なる者、非のうちどころのない者となるのは、イエスの新しい愛の掟を忠実に守ることだからです。そして、このメシアこそ、父なる神がわたしたちに与えてくださった限りない愛のしるしだからです。このことを、使徒ヨハネは、つぎのように語ってくれます。

   「愛することのない者は、神を知りません。神は愛だからです。神は、独り(ひと)子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。・・・神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う<いけにえ>として、御子(おんこ)をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と(ヨハネの手紙一、4.8-11)。 

人の子の前に立つ

ところで、今日の福音も、将来、必ずやって来る「その日」について、黙示(もくし)文学的手法で描いております。ちなみに黙示文学とは、人間には直接知ることの出来ない神の意志や、人間の歴史やその苦難の意義などを、幻想的なイメージやシンボルで描く文学です。ですから、イエスは弟子たちに次のように言われたのです。

   「太陽と月と星に(しるし)が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る(おちい)。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うであろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る」と。

   このようなまさに天変(てんぺん)地異(ちい)によって、人々が恐怖のどん底に突き落とされるとき、わたしたちはどうすればよいのでしょうか。イエスは、はっきりと忠告なさいます。

   「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭をあげなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」と。

   ここで言われている「解放」とは、たとえば使徒パウロのローマの信徒への手紙(3.24)では「キリスト・イエスにおける贖い(あがな)によってわたしたちは()とされた」となっています。つまり、キリストによる全人類の贖いは、二千年前十字架と復活によって始まりましたが、その救いの出来事が完成するのは、まさに「その()なのです。つまり、この「解放」とは、「救いの完成のとき」にほかなりません。ですから、わたしたちは、「人に子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈らなければならない」のです。このことに関して、ペトロは次のような手紙を書いてくれました。

   「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深く振る舞い、身を慎んで(つつし)よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛しなさい。愛は多くの罪を覆う(おお)からです。不平を言わずにもてなし合いなさい。・・・語る者は、神のことばを語るにふさわしく語りなさい。奉仕する人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」と(ペトロの手紙一、4.7-11)。

   主が来られるのをふさわしく待ち望むために、日々真剣に祈り、愛の実践に励むことによってこそ、ふさわしい準備が出来るよう共に祈りたいと思います。

主の再臨