神の母聖マリア 1月1日。祭日。
降誕8日目にあたる1月1日に、カトリック教会はローマの古い伝統に従い、“神の母マリア”の祭日を祝います。
マリアを「神の母」と宣言したのは、431年のエフェゾ公会議でした。年のはじめをマリアの記念日として祝い、祈るのは古いローマ教会の伝統によっています。また、この日がことに大事にされるようになったのは、12月25日から数えてちょうど8日目にあたるからです。8日目にあたるこの日、誕生した神の子は「イエス」と命名されることにより、正式に神の民の歴史、人類の歴史の一員になります。そして、マリアには、救い主としてのイエスの使命に、自分も深く一致するという母の姿があります。
マリアは、羊飼いたちにイエスを示し、彼らを喜びでみたしましたが、今日も私たちに恵みそのものであるイエスを示し、与え続けられます。この日は「世界平和の日」でもあります。世界の人々と心をひとつにして、たまものである平和を祈り求めましょう。
教会は、年の最初の朗読を、イスラエルに伝わる民数記6章の祝福の言葉ではじめます。創造の時、「神はお造りになったすべてのものを御覧になり」、それは「良かった」とすべてを「祝福し、聖別され」ました。祝福によってはじまった救いの歴史が、祝福によって継続され、祝福によって完成されたことを教会は思い起こします。
第1朗読に応えて祈る答唱詩編(67.2-3、7-8)も、すべての人々の祝福を願う祈りです。 すべての人の祝福を祈るこの詩編を年のはじめに祈ることは、非常に心を豊かにしてくれます。この詩編を祈りながら、神の母マリアに全人類をゆだねることにしましょう。 第2朗読では、ガラテヤの信徒への手紙が読まれます。パウロは、神の子がこの世界に来られた現実を深く考察しています。
「神は御子を女から生まれた者としてお遣わしになった」と、特定の時代、民族、文化…の中に、神はイエスをまことの人間として生まれさせました。このことにパウロは、神の救いをみているのです。
「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」と、今日の朗読は終わりますが、「神の相続人になった」という一人ひとりの現実がどれほどのことであるかを、照らしていただけるように祈りましょう。
この日の福音は、「主の降誕」の日に朗読された福音(ルカ 2.1~14)の続きです。歴史の出来事としてのイエスの誕生、み使いが荒れ野で羊飼いたちに現れ、イエスの誕生の意味を教えましたが、今日の福音は、このみ使いが去った後の羊飼いの行動が語られています。
彼らは、自分で「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」を探し当てます。彼らは、見た「幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ」ます。これを聞いた人たちの反応はさまざまでした。つまり、聞いた人たちは「不思議に思った」のです。マリアはこの「出来事をすべて心に納め」、「思い巡らして」いました。羊飼いたちは、「神をあがめ、賛美しながら帰って」いきました。
これらは、幼子を前にして、目に見えることへの反応の中に、そこに隠された神秘を見られるか否かを 私たちに示しているのではないでしょうか。こう見てみると、今日の典礼の意図するところは、救いの神秘において果たしたマリアの役割を記念することと言えます。また、この神秘が聖なる母にもたらした、たぐいまれな尊さをたたえることをも意図しています。聖なる母マリアをとおして、私たちはいのちの与え主・キリストを、受け取るためにふさわしい者とされたのです。
ようです。
主の公現(三人の博士)
1月6日。日本を含む宣教地では、司牧上の配慮から1月2日から8日の間にある主日に移動する。祭日。
イエスがお生まれになったとき、東方の占星術の学者たちが、星に導かれてやってきました。そしてユダヤの王として生まれたイエスに、黄金、乳香、没薬(もつやく)を贈り物としてささげました。
この占星術の学者たちは、ギリシア語で‘μαγοι(magoi)’と書かれています。これは東方の聖職者や占星術師、魔術師を意味します。伝承では、彼らは異教の国の賢者の代表とされています。6世紀、彼らは王とされ、10世紀になるとガスパール、メルキオール、バルタザールという名前が付けられました。15世紀には、彼らは三大陸から来たと考えられるようになりました。次第にこの三人の博士に対する信仰が表れ、ドイツのケルンを中心に広がってきました。
ところで、この三人の博士たちの贈り物「黄金、乳香、没薬」とはなんだったのでしょうか。この贈り物は、下記のようなことを意味するものでした。
黄金
王位の象徴。王位の象徴である「黄金」をイエスにささげたことは、すなわちイエスが「諸王の王」と呼ばれる存在であることを、世界に示したことになる。
乳香
祈りの象徴。乳香の樹液から作られた 崇拝に使われる高価な香料。イエスが「神から油を注がれた者(キリスト)」であり、聖別されている者であることを意味ましす。さらに、イエス自身が崇拝を受ける存在、「神」であることも現す。
没薬
死の象徴。没薬は、ミルラとも言い、本来 死者の身体に、死体の防腐剤として塗られるものだった。世界の罪を負い「神の子」として死ぬためにこの世に生まれ、やがて復活することをも意味する。
1月6日の主の公現は、3世紀ごろはじまったときには、キリストの洗礼や降誕の祝日でしたが、4世紀ごろには東方の三人の博士を祝う日となりました。現在は、異邦人に救い主であるキリストが公に現された日、として祝われています。
注)聖書には、東方の博士が三人とは記されておらず、三人であることの根拠は明確ではありません。おそらく、、イエスに献げられた贈りものが、黄金、乳香、没薬の三つであったことから三人と理解されるようになったのでしょう。
主の洗礼
「主の公現」の次の日曜日(主の公現を1月7日または8日に祝った場合はその翌日)。祭日。
クリスマスを中心にした待降節、降誕節のしめくくりは今日の“主の洗礼”の祝日です。初代教会の人は、主イエスの洗礼の中に、キリスト者の洗礼の原型をみていました。さらに主の受洗によって、「神の霊がくだり」、主が神のメッセージを伝える預言者として立てられたという重大な出来事をもみていました。主の洗礼は、イエスが福音宣教という使命を果たしていくための準備でもありました。そのため、福音記者はいずれも主の洗礼を伝えています。主イエスの洗礼は、終末的な出来事として描写されています。
教皇ヨハネ・パウロ2世が、ロザリオに新しい「光の神秘(玄義)」を付け加えられた時に、第一の黙想に「イエス、ヨルダン川で洗礼を受ける」とされました。この一連を黙想しながら、洗礼の恵みを神に感謝し、聖霊に導かれて、神の子として生きることができるよう聖母の取り次ぎを願うように勧められました。
今日読まれる第1朗読のイザヤ書42章は、第2イザヤ書に属します。イザヤ書には、「主のしもべの歌」が4つありますが、今日読まれる箇所はその第1の歌です。
「わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者」という言葉は、主の洗礼の「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父の声と呼応しています。
「神の心に適う者」として霊を授けられたしもべは、共にいてくださる神を信頼して、あらゆる困難を乗り越え、ひたむきに自分の使命を果たします。この短い箇所に、しもべの姿が見事に書かれています。この歌を読んでいくと、いろいろな言葉からこの歌がイスラエルを越えた世界をみていることが理解されます。このイザヤ書の言葉をかりて、福音書はイエスの姿を描くのです。
この日読まれる使徒言行録10章は、「イタリア隊」と呼ばれる部隊の、百人隊長コルネリウスの洗礼をめぐる回心記の一部です。洗礼者ヨハネの述べた洗礼の出来事を伝え、これが主イエスの宣教生活の、出発点になることをほのめかしています。
ナザレのイエスについての出来事を語る今日の説教は、初代教会の信仰宣言です。ペトロは、「どんな国の人でも、神を畏(おそ)れて正しいことを行う人は神に受け入れられる」という信仰体験をあかししています。
今日の福音では、マタイによる洗礼の記事が読まれます。洗礼によってイエスの宣教活動がはじまるのは 他の福音史家と同じですが、マタイの場合、他の福音史家よりも 主の洗礼の神学的側面を重視しているようです。
それにしてもなぜ、主イエスは洗礼を受けられたのでしょうか。イエスの洗礼には、どのような意味があったのでしょうか。そのような疑問が、わいてきたことはありませんか。 主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。それは、ひとつの出来事でした。イエスが洗礼を受けたのは、悔い改めの必要があったからではありません。そうではなく、罪に倒れた私たちのところにかけよってくださり、イエスご自身も倒れた場に立って、私たちと共にいてくださり、一人ひとりを力づけてくださるためではないでしょうか。
このイエスに触れる人は、だれでも罪から立ち上がろうとする恵みがいただけるのです。主イエスは、私たちのために、へりくだって悔い改めの洗礼を受けられたのです。
主イエスの洗礼が事実であり、しかもイエスにとって大切な出来事であった、という視点で今日の三つの朗読を読み返してみると、イエスの洗礼は“キリスト”としての使命の出発点であったと理解できます。
イエスが罪びとの列に身を置かれたこと、私たちと共に生きてくださること、共にいてくださるイエスの心を 味わう一日としませんか。
主の洗礼を祝った後、典礼は年間に入ります。この日々を教会カレンダーと共に、毎日のみ言葉に触れながら豊かなものとしてください。