今月の典礼について
三位一体の主日
聖霊降臨の主日の1週間後の日曜日。祭日。
先週の日曜日に聖霊降臨の主日を祝った教会は、翌月曜日から年間に入ります。教会は、キリストの死と復活、聖霊降臨という偉大な秘義を祝ったキリスト者は、その救いが父と子と聖霊のわざによるものであることを思い、味わいます。その日が三位一体の主日なのです。
三位一体の神秘は、私たち人間の知性では決して知ることのできなかったことです。それを私たちに教えてくださったのは、他でもなく、イエス・キリストです。教会はイエスが教えてくださった神をできるだけ忠実に表そうとして、歴史の中で「三位一体の神」というキリスト教的な神理解が明確になっていきました。三位一体の神秘は、新約聖書の中でほとんどいつも“派遣”というテーマで啓示されています。私たちの救いのために、父が子を派遣し、父と子とが聖霊を派遣するというテーマです。
イエス・キリストは、私たちに三位一体の神秘を啓示してくださったばかりか、私たちを三位一体の内面のいとなみに招き、導いてくださいます。
三位一体のためのミサの祈願は、8世紀半ばの典礼書に見ることができます。1334年 教皇ヨハネ22世は、三位一体の祝日を全世界の祝日として制定しました。1570年のピオ5世の「ミサ典礼書」以降、教会に定着しました。教会は、この救いの神秘の祝日を大切に伝えています。私たちが十字を切る度ごとに、この恵みを思い起こすことにしましょう。
三位一体のためのミサの祈願は、8世紀半ばの典礼書に見ることができます。1334年に、教皇ヨハネ22世によって導入され、1570年のピオ5世の「ミサ典礼書」以降、教会に定着し、教会はこの救いの神秘の祝日を大切に伝えてきました。
教会の祝祭日は、キリストの出来事を記念し、その日の福音書は、それを理解するために選ばれています。三位一体の主日は、歴史的には、教会の教義をつくりあげていくときの影響を受けているので、理念の祝日ともいわれているほどです。
注)三位一体の神秘
「三位一体」とは、「一なる神」のうちに、父と子と聖霊という三つの「位格(ペルソナ)」があるというキリスト教の最も基本的な教義である。イエス・キリストが「神性」と「人性」を共に有すること、すなわち神であり同時に人間であることを基本的な内容とする「キリスト論」とともに、「三位一体論」は、キリスト教の最も基本的な教えとして、古代以来、受け継がれてきた。
「神であると同時に人間である」とか、「一なる神のうちに三つの位格がある」といった、いかにもありえそうにないことが根本的な教えとして確立したという事実は重要である。キリスト教の教えのなかには、我々に違和感を与える多くの要素が含まれているのである。
だが、そのことは、キリスト教の信頼性を揺るがすものではない。キリストの教えは、神から与えられたものであるからこそ、人間にはすぐに理解したり解読したりすることのできない多くの謎を秘めたもの(神秘)になっていると、神学者たちは考えてきた。
神の神秘は、理性を「超えている」が、理性に「反している」わけではない。理性を超えているからこそ、理性による探求を絶えず促し続ける。そして、そうした探求は、「神」についてのみではなく、「神の像」として創造された「人間」についても様々な洞察を与えていく。
父と子と聖霊が自立した存在でありながら永遠の一なる交わりのなかにあり続けているという神秘。それは、我々人間もまた、お互いに自立した存在でありつつも愛の深い交わりのなかにあり続けることができることのモデルとして捉えることもできると、多くの神学者たちは考えてきた。「自立性」と「関係性」とは矛盾せず、むしろ、他者との深い「関係性」のなかでこそ、真の「自立性」は存在する。一見難解な「三位一体」の教えもまた、「愛」というキリスト教の最も根本的な教えと深く繋がっているのである。
(『聖書と典礼』2020年6月7日号表紙絵解説 山本芳久 東京大学教授)
A年
第1朗読では、出エジプト記が読まれます。今日読まれる34章は、31章以下で物語られている「黄金の子牛」により破棄された契約の2度目の締結となっています。
今日読まれる箇所を理解したいと思うなら、32章から読むといいでしょう。神とモーセとの会話から、今日の34章の偉大な神顕現へと導かれていきます。今日の朗読箇所は、旧約の中で最も偉大な神顕現の一つとされています。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち(た者)」と、主の名が宣言されています。神の顕現の前に、神のご好意の前に、モーセは地にひざまずき、ひれ伏しています。このモーセの態度は心打つ姿勢です。この神は三位一体の神として示されているのです。
第2朗読では、コリントの教会への第2の手紙の結びのあいさつです。ミサの開会の言葉が、ここからとられているのにお気づきでしょう。
パウロは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と祈るのです。「交わり(コイノニア)」とはキリストをとおして実現される究極の救い、「神と人との最も親密な交わり」です。ミサに参加する度ごとに、この神との交わりに招かれ、神が私たちといつも「共にいてくださる」ことを思い起こしましょう。
今日読まれるヨハネ福音書は、ヨハネ福音書の中で4回しか使用されていない「独り子」という用語が2回出てくる大切な箇所で、子をとおして示された父の愛について述べています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16節)
三位一体の神秘、神の奥深い内面生活に関する神秘です。私たちの理性では知ることのできなかったもので、それをイエスが教えてくださったのです。
キリストの聖体
キリストの聖体の祭日は、本来、「三位一体の主日」の週の木曜日に祝われますが、日本ではこの日が守るべき祭日ではないので、三位一体の主日直後の日曜日に祝います。
「聖体の秘跡」に対して、教会はいつも最大の尊敬をはらってきました。主の生涯の出来事、誕生からご昇天まで祝ってきた教会は、主の形見ともいうべき「聖体の祭日」を祝います。「私の記念としてこれを行いなさい」との主の命令によって、「主の晩餐(ばんさん)」の記念は初代教会から大切にされてきました。
今日祝う「キリストの聖体」の記念祭儀が定められたのは、13世紀のことです。教皇ウルバノ4世が教令を発布した1264年から、この祭日はローマ教会全体で祝われるようになりました。この祭日の目的は、人類に対する神からの恵み、愛の結晶である「聖体の秘跡」について公に感謝することです。『主よ、一緒にお泊まりください』を再読されることをお勧めいたします。その中で教皇ヨハネ・パウロ2世が勧めておられる『教会にいのちを与える聖体』をもこの機会に読み直されたらいいと思います。
A年
第1朗読では、「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」とはじまる申命記が読まれます。
エジプトを脱出した民の荒れ野での体験が語られます。この荒れ野の体験に神学的な考察が加えられています。神は荒れ野でマナをふらせ、神の言葉の真実を示されました。
主はモーセに言われた。
見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。
民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。
わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。(出エジプト 16.4) 日ごとに神により露命をつなぐこの体験は「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」のです。民は飢えを体験し、このマナをいただくことにより、人間の基本的飢えから解放されたのです。
「あの荒野、荒涼とした、穴だらけの地 乾ききった、暗黒の地 だれひとりそこを通らず 人の住まない地」(エレミヤ 2.6)における神の導きは、実に恵みであり、奇跡とも言えるほどです。
新約においてマナの奇跡に代わるものは、イエスの「血と肉」であり、これは終末的ないのちを与えるものなのです。このいのちをいただきながら、今日も私たちは神に導かれて歩んでいきます。この現実を味わう1日としてはいかがですか。
今日、第2朗読で読まれるコリントの手紙の箇所は、「主の晩餐」について書かれた最古の文献とされています。ユダヤの人が行う過越祭では、4回一つの杯をまわして飲みほす習慣がありました。「祝福の杯」は、この中の第3の杯で、主が最後の晩餐で祝福されたものと言われます。
わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
この箇所は真の参加と本質に関わるものです。キリストに関わりをもつ者はキリストと一つになるのです。この一つの杯とパンにあずかる聖体祭儀のうちに、神と神の民とのコイノニア、つまり交わり・一致が最も確かな形で実現するのです。
今日読まれるヨハネ福音書は、「いのちのパン」について書かれている6章の一部です。イエスは「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と、かつてのマナに代わるものはご自分自身であると宣言されます。
古代オリエント社会では、食事を共にすることは、深い宗教的意義をもっていましたが、イエスは聖体の秘跡を「食べ物と飲み物」、つまり食事として制定されました。
ヨハネ福音書では、食事の意義が高められ、イエスと一致し、彼によって生かされるには、その肉を食べ、血を飲まなければと言われます。食物ではなく、食事をする私たちがイエスに摂取され、イエスの体となるのです。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」のです。
イエスが聖体を制定されたのは、ご自分のいのちがこの世から抹殺されようとしていたその時です。イエスはご自分をお与えになることにより、いのちの交わりに招くとともに、私たちはそれに参与することにより、イエスと一つの体となって天に向かうのです。ご聖体をいただく度ごとに、私たちのいのちの奥にイエスの愛があることを思い、感謝したいものです。