カトリック仙台司教区 Catholic Sendai Diocese

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司教

聖年2025年 年頭書簡

駅伝

カトリック仙台教区 教区長
司教 ガクタン エドガル

 

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

新年のご挨拶を申しあげます。神が、豊かな恵みを注いでくださり、皆さんが日々平和のうちに過ごされ、神が、皆さんの祈りを聞き入れてくださいますように。

私は聖年である 2025 年の年頭書簡のタイトルを「駅伝」といたしました。新年に行われる有名な「箱根駅伝」や、日本にはその他多くの駅伝がありますが、一本のたすきをつなぎながら選手が走るように、私たちも信仰のたすきを次代につなぐために、指定巡礼所をこの一年の間に出かけましょう。実際、私たちの生涯は巡礼です。

私は、各地区に指定巡礼所を定めました。それは、弘前教会、四ツ家教会、米川教会、元寺小路教会、野田町教会の五つの教会と、大籠殉教地と広瀬川殉教碑です。

その指定巡礼所の一つ大籠殉教地を、前回訪れたのは昨年 3 月 3 日でした。その日、大籠に近い長徳寺を訪れる機会がありました。岩手県一関市藤沢町の時宗の寺院・長徳寺の住職である渋谷真之師のお招きを受け、お寺の行事に参列しました。住職と挨拶を交わすと共に一枚の写真を贈りました。それは、私が 2023 年 9 月 7 日に教皇フランシスコに、住職から教皇に宛てたキリシタン殉教者記念碑についての手紙を差し上げたときの記念写真でした。(世界新司教の研修会に参加するため一昨年一週間ローマにいました。)長徳寺の訪問後、信仰の先輩たちの信仰の旅を考えながら、大籠殉教地に祈りに行きました。仙台教区のもう一つの指定巡礼所は、1624 年 2 月 22 日、広瀬川の水牢の柱に縛られ殉教したポルトガル人イエズス会司祭ディエゴ・カルヴァーリョ神父と 8 人の日本人信徒を記念する広瀬川殉教碑です。私たち仙台教区は、昨年 2 月 23 日、福者ディエゴ・カルヴァーリョ神父と同志の殉教 4 百年を記念するミサ・殉教祭を行いました。技能研修生として東北で働いている数人のベトナムの若者たちもミサ・殉教祭に参加しました。私は、説教の中で日本を追放されたカルヴァーリョ神父が密かに日本に戻るまで 1 年間をベトナムで過ごしたことを語りました。カルヴァーリョ神父の殉教記念は、世代と地理の距離を埋めてくれたような感じがしました。

江戸時代には、東北で約 1000 人ものキリシタンが殉教者として亡くなりました。福者ペトロ岐部は、東北で何年も宣教司牧した殉教者でした。忘れてはならないもう一人のキリシタンは後藤寿庵です。彼が殉教したかどうかは不明ですが、彼が洗礼を受けた長崎で学んだ技術を用水路の工事に駆使していました。今日至るまで水沢の人たちは、後藤寿庵を尊敬しているのです。

大籠と広瀬川訪問の話が時代錯誤と聞こえ、私が過去にとらわれた人と思われるかも知れません。しかし、過去を思い起こすことは、必要です。歴史家エドワード・ハレット・カーの「歴史とは、現在と過去の継続の対話である」という言葉があります。実際、私たちにとって祈りとは、歴史の原点である神との対話です。祈りは、私たちを前進させます。

私たちが日曜日ごとに記念する感謝の祭儀 ・ 「ミサ」は、2000 年以上前に行われた「最後の晩餐」にさかのぼるのです。私たちは、イエス・キリストが受難に向かう前、弟子たちとなさった食事を主の記念として行なって、主の命がけの行為を追憶し、「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます。再び来られるときまで」と唱えます。ミサの終わりに、私たちは、ミサで新たに受けた主イエスの福音を告げ知らせるように遣わされます。私たちキリスト者は、過去にとらわれた人ではなく、前向きの民なのです。

仙台教区の歩みの前進のために、私は、2024 年の年頭に、ある課題について皆さんに話し合うよう、呼びかけました。みなさんの実践または希望としての答えを 24 年 9 月 23 日に開かれた仙台教区宣教司牧評議会定例会や他の機会で聞きました。

2024 年 9 月 23 日に会議を開いた仙台教区宣教司牧評議会定例会ですが、この会議は司教諮問機関の一つで、総代理、事務局長、地区長、各地区の信徒代表、修道女会代表で構成され、年に一回定例会を開きます。私は、今回の会議の目的を開会挨拶で次のように述べました。

2024 年の年頭書簡に書いたように、私は「小教区」を畑に例えて、私たちは小教区をどのように世話をしていくべきなのかなど、と問いました。この問いへの回答を一緒に考えていきたいと思います。本日の作業として、先に、各地区代表からの報告を聞き、小教区・ブロック・地区の近況を見ましょう。次に、第二バチカン公会議において教会が示す道筋を新たに知っておきましょう。最後に、一人ひとりの声に耳を傾け、聖霊の導きを受けて、この道筋に沿う福音宣教に奉仕する小教区を描きましょう。

皆さんの私の問いに対する答えをいくつか挙げます。それは、司祭が主日のミサができない場合、信徒たちと「ことばの祭儀」を一緒に準備すること、主日に複数の小教区共同体がミサを行うこと、司祭が常駐していない司祭館を信徒が交代で開き、信仰について分かち合う機会を持つこと、挨拶をするよう意識的に努力することといった答えです。

宣教司牧評議会定例会の結論をまとめるのは難しいのですが、繰り返し出ていた言葉をヒントにするならば、教区の優先課題は、「コミュニケーション」そのものです。「小教区は人々を結びつけ、長期的な個人的な関係を育み、それによって人々に帰属意識と必要とされているという感覚を与える場所でなければならない」、定例会で受けた講話のその一言が、私の心に響いています。

2024 年度の宣教司牧評議会定例会から提案や質問を受けて、また、仙台教区の司祭たちとの対話や小教区訪問の際に見聞きしたことを踏まえ、私たち仙台教区民が、2025 年の間、特にカトリック教会の典礼に関する理解に力を入れて行くことを目標に前進しましょう。

教会が常に守ってきた基本的な教えがあります。それは、「祈りの法は、信仰の法、生き方の法」という教えです。つまり、私たちの祈りが、私たちの信念を表現すると同時に私たちの祈りが私たちの信念を形成するのです。教会の祈りが神聖なものであり、真実であるような教会で育ったならば、私たちは、その祈りの内容を信じ、それを実践するでしょう。

この方向性の具体化としては、私たちが典礼の意味を知り、典礼をよく準備することに力を入れてまいりましょう。「ミサ」と「ことばの祭儀」の位置づけなどに関する質問に対して、答える者によって回答が異なる、このような懸念をいろいろな機会に耳にしました。こういった問いかけに対してじっくり答えていきましょう。

ヘブライ人への手紙の 12 章に次の言葉があります。

1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

この言葉を読むとき、箱根駅伝で選手が走る沿道には、多くの応援する人で埋め尽くされている様子を想像します。つまり、スタートからずっと続いて何世代もの信仰者たちが、信仰において成長し成熟していく中で、あらゆることに忍耐強く耐えていく私たちを応援してくれているのです。

世代によって、歴代のキリスト者が直面する課題は、異なります。私たちは、宗教的迫害を受けていませんが、今日の試練はさまざまです。家庭内の価値観の対立、別れる寸前の結婚生活、性別指向に対する無理解、職場での難しい人間関係などなど。こういった現実の中で、「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ 5・5)。これこそ、聖年のテーマです。

2025 年の聖年のための書簡で、教皇フランシスコはこう語られています。

巡礼が、聖年のすべての行事の基本要素であることは偶然ではありません。旅に出ることは、人生の意味を探し求める人の特徴です。徒歩巡礼は、沈黙、苦労、いちばん大切な物事、それらの価値の再発見に大いに有益です。

聖年の間、仙台教区の巡礼所を訪問し、皆さんと共に祈りと会話に満ちたひと時を過ごしたいと思います。

 

共に歩む巡礼者の一人
+ガクタン エドガル

2025年1月1日
着座三周年の年頭書簡

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